小説を書くにあたって、世界観というのは重要である。 たとえば時代。現代なのか、過去なのか、未来なのか。 たとえば世界。我々の住む世界か、異世界か。 たとえば登場人物。動物(人間含む)か、昆虫か、植物か。 世界的に有名な小説『指輪物語』の作者J・R・R・トールキンは、非常に緻密で綿密な 設定を行っていたことで有名である。 彼が構築したものは、登場人物の系図、歴史、言語、暦にまでおよび、まさに世界その ものを作り出す作業を行ったと言っても過ぎることは無い。 世界観の構築とは、究極的に言って、トールキンのようにするべきであろう。 しかし、現実にそこまでできるかというと、それはまた別の話である。 私が思うに、世界観はどこまで作るのか、という問いへの回答は、「作者の思うところ まで」ということであろうと思う。 以前、サークル仲間からこんな問いがあった。 主人公の両親について、物語には登場させないつもりだが、設定を作っておく必要はあ るだろうか。 という内容のものである。 私はそのとき、「設定は必要だろう」と答えた。 たとえば、両親を早くに亡くした主人公であれば、いまは亡き両親への思慕があるかも しれないし、それが転じて、幸福な家族への恨みになるかもしれない。 また、別居中であれば、親子仲が良ければ、折に触れて連絡を待つだろうし、仲が悪け れば、親(大人)に対する不信感も持っているだろう。 このように、表(小説の文面)に出さなくても、設定によって、物語内部への影響(あ るいは条件付け?)を与えることがある。 無論、こういった影響を一切排除して、主人公の両親を全くの謎にしておくこともでき る。 そこは、作者の匙加減ということになるだろう。 こういったことも、世界観の構築と言えないだろうか。 ただ、世界観は重要であるが、私自身、別にゾライズム(*1)に傾倒するわけではない ので、科学的な要因がどうということではない。 登場人物の性格や、役割について、あまりにも荒唐無稽であると、返ってやりにくいの ではなかろうか、と思うが故の、世界観・設定である。 まあ、やりにくいと感じてしまうあたり、私の限界なのかもしれない。 小説の文脈に現さなくても、設定の段階では、さまざまな情報があって損は無いし、ま た、不思議でもない。当然あるべきだ。 しかし、何度も言うが、それを小説に登場させるかどうかは、別の問題になってくる。 それゆえに、作者の思うところまで、である。 注 *1:科学的な観点から小説を書くという立場。自然主義。登場人物の生育環境や遺伝など が、その人となりに影響を与えるというもの。 フランスの作家エミール・ゾラから始まる。