気にしない気にしない


―島崎藤村作『幸福』を題材に―


 あるところに、何も気にしない人がおりました。  その人には、きちんとした名前があったのですが、他人様が自分を何と呼ぼうが気にし なかったので、皆は好き勝手に呼びはじめ、次第に誰も本名を呼ばなくなってしまいまし た。だから、仮に「彼」としておきましょう。  彼の家には兎が一羽おりました。この兎と言うのも、彼が親元から離れた時に勝手に付 いてきたもので、どうあっても親の家に帰らないので、仕方なしに面倒を見ている兎でし た。しかし、侘しい一人暮らしの中で、兎も無いよりはましなのでありました。  兎の方も、彼を飼い主と思っているのか、いないのか。特に気にする風も無く、毎日寝 てばかりいました。  彼の住んでいるこの村は、昔から石切りで有名でした。  どんなに硬い石も、この村の人なら切り出すことができましたし、どんなに柔らかい石 でも、この村の人なら形を崩さずに運ぶことができました。  ところが、いつの頃からか、石切りは廃れていきました。石切りはとても辛い仕事で、 その割にはお給料は安いのです。村の人々は皆、割のいい仕事につき始めました。  村の人が全て石切りだったのに、一人減り、二人減り、とうとう、彼と彼のお隣さんの 二人になってしまいました。  周りの人が石切りをやめて、割のいい楽な仕事についてしまっても、彼は気にしません でした。 「やあ、俺にはこれしかできないから」  そういって、彼は穏やかに笑うのでした。  ある日、お隣さんがやってきました。 「おれ、石切りをやめることにしたよ」  お隣さんは、悲しそうな顔で言いました。 「子供が生まれるんだが、石切りでは食べていけないんだ」  彼にはお隣さんの気持ちが良く分かりました。  だから、お隣さんが石切りをやめると言うことは気にしないで、こう言いました。 「やあ、お子さんですか。そいつはおめでたい」  彼は、いつもの穏やかな笑顔でお隣さんを祝福しました。  お隣さんは、すまなそうにしながら、彼にお礼を言って、帰ろうとしました。しかし、 何かを思い出したのか、振り返って、彼に言いました。 「最近、貧乏が現れるらしい」 「貧乏ですか?」 「そう、貧乏だよ。あいつは厄介だから、お前さんも気をつけな」  彼は、わざわざ忠告してくれたお隣さんにお礼を言って戸を閉めました。そしてふと思 ったのです。 「しかし、気をつけろとは、一体何に気をつけるのだろうか」  彼は貧乏と言うものを見た事がありませんでしたので、お隣さんの忠告が、上手く理解 できませんでした。 「もしや、その貧乏とは、出会いがしらに襲い掛かってくるやつなのだろうか。ならば用 心しなければなるまい」  彼は、うんうん、と一人頷きながら、今日の夕餉に取り掛かるのでした。  ついにたった一人の石切りになってしまった彼でしたが、そんなことは全く気にしない で、村で一番辛く、一番割りに合わない仕事を、彼は一人で黙々と続けたのでした。  そして数日後の夕暮れのことです。彼は夕餉の支度をしていました。すると、とんとん、 と戸を叩く音がしました。  彼が戸を開けてみると、そこには一人の乞食が立っておりました。 「お前さんは誰ですか」 「私は貧乏です」 「ふぅむ、貧乏か」  彼は貧乏というものを始めて見ました。その形は貧しい貧しい乞食のようなものでした。  とても貧相な身なりで、こけた頬に、くぼんだ眼。疲れた顔の貧乏でした。  彼は、ふと夕餉のことを思い出しました。腹が減っていそうな貧乏を見て、自分も腹が 減っていたことを思い出したのです。  夕餉のことを思い出した彼は、貧乏の汚い身なりなど全く気にしませんでした。それよ りも、腹が減っていそうな貧乏の顔が気になったのです。  彼は戸を開けたまま、台所へと入り、おむすびを握って皿に乗せ、ついでに沢庵を一切 れ乗せて、戸口へ戻りました。 「さあ、これをおあがんなさい」  貧乏は、彼の差し出したおむすびをとてもうれしそうに受け取りました。 「どうもありがとう」  貧乏はお礼を言うと、おむすびを食べ始めました。  彼は、ふと思いました。そうだ、白湯でも出してやろう。  台所に戻った彼は、鉄瓶に入っていた微温湯を茶碗に注いで戸口へ持って行きました。  ところが、今のいままでいたはずの貧乏が、影も形もありません。 「おや」  彼は辺りを見回しましたが、それらしき人の姿はありませんでした。ただ、戸口の脇に、 空っぽの皿が一枚置かれていただけでした。  それからしばらくしたある日、村にお役人が来て言いました。 「これから、この村の近くに石の祠を建てる。石切りの衆は集まって欲しい」  こけた頬に、くぼんだ眼、とても疲れた顔をしたお役人でしたが、その声は大きく、村 中に響きました。しかし、その声を聞いた村の人々は困ってしまいました。石切りで有名 だった村ですが、今のこの村で石切りは、最後まで残っていた彼一人になってしまってい たのです。  お役人は言いました。 「では、お前に全て任せよう。給料は弾むぞ」  と、今までに見たことも無いようなお金を出しました。  これに驚いたのは、誰でもなく、石切りの彼本人でした。 「これは大変な仕事だ、俺一人では無理だ」  彼は、お金のことも、自分の名声のことも全く気にしない人でしたので、すぐに村の衆 に言いました。 「手伝ってくれ。給料は皆で分けよう」  村の衆は驚きました。彼は、お金も名声も、独り占めできたのに、そうしなかったので す。  それから村は大変でした。昔石切りをやっていた人はもちろん、親の代で石切りをやめ てしまった人も、皆で祠に使う石を切り出したのです。  ここでもやっぱり村人は驚きました。石切りのやり方を忘れてしまった村人に、上手い やり方を教えながらも、彼は誰よりも働いたのです。  彼は誰よりも辛い仕事をして、誰よりも沢山の仕事をしました。 「やあ、俺にはこれしかできないから」  彼はいつものように、穏やかな笑顔で言いました。 村の人は、この気にしない人は、変わらない人でもあるのだ、と、初めて思いました。  それから彼は、村の人たちに「石切りさん」と呼ばれるようになりました。彼は、自分 の呼び方がどうであろうと気にしない人でしたので。相も変わらず穏やかに過ごしました。  村の近くに出来上がった祠は、とても立派なものでありました。その名前も立派なもの だったのですが、村の人々は、それを本来の名前で呼ばないで「石切りさんの祠」と呼び ました。  石切りさんは、祠の呼び方がどうであろうと気にしない人でしたので、いつものように 石切りをやっていました。  ただ一つだけ、いつもと違うことがありました。  昔のように、石切りが盛んになった村で、石切りさんの幸福そうな笑い声が聞かれるよ うになったのです。  それからしばらくして、「石切りさんの祠」は「幸福さんの祠」とよばれるようになり ました。


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