L.D.Z


@ ある別れと、その後の出会いの状況


(1) 別離  通常、人間の脳は、全能力のおよそ二割程度しか発揮していないといわれている。それゆえ、人間 には未だ計り知れない潜在能力が秘められているのである。 「って言うけどさぁ、これっておかしくない?」  車椅子の少年は、若年層向け科学雑誌を膝に置いて言った。 「ほう、どの辺がおかしかった?」  少年の脚をマッサージしていた白衣の少女が、顔も上げずに言う。 「うーん、たとえばさ、自動車ってあるじゃない。あれはさ、最大で時速二百キロとか三百キロとか 出せるけど、実際にそんな速度で走ってる自動車なんて見たことないよ。それはさ、最大速度を出す と危ないからでしょ」  少年は、考え、言葉を選びながら言う。  しゃがみ込んでいる少女は、何も答えない。少年の話の続きを待っているのだ。その間にも、固ま っている脚の筋肉をほぐすため、細い指をゆっくりと動かしている。 「それにさ、ナオは言ってたろ、人間の体には全力を出さないための安全装置があるって。人間は痛 みを感じることで、自分の力を抑えてるってさ」  少年は、数日前に白衣の少女、ナオから受けた講義の内容を覚えていた。  自分の脚を動かすために、人体の勉強をしたのだ。 「良く覚えていたな、その通りだ。全力を出せば自分で自分を傷つけることもある。痛みを怖がるこ とで力の出し過ぎを抑制し、自壊を防いでいるわけだな」  人間の骨は、部分的に見れば自然石よりも硬い。それゆえに、拳で岩を砕くという芸当も、不可能 ではない。  ただし、これには制約が付く。  正しいやり方で、正しい訓練をしないといけないのだ。  そうでなければ皮膚が裂け、筋肉が切れるだけに終わってしまうだろう。 「そうそう、それそれ。痛みを怖がっているから、自分で自分の体を守っているって話。脳もそれと 同じだと思うんだ」  我が意を得たり、少年は身を乗り出した。 「脳だって、いつも全力で頑張っていたら壊れちゃうよ。力を出しすぎないように、無意識に調整し ているから二割程度の部分しか使ってないんだ」  顔を輝かせて一気に言う少年。  もともとの性格からか、それともまだ幼い少年であるが故か、彼は科学やサイエンス・フィクショ ンの世界に興味津々だった。  目を輝かせる少年を、ナオは、微笑みを浮かべて見上げる。 「自動車と同じでさ、全力を出すと危ないから、少しか使わないんだよ」  少年は、再び科学雑誌を開く。  歩行訓練であれば別だが、マッサージ中はやることがない。  子供向け科学雑誌は、ナオが用意したものだった。 「さて、今日のリハビリは終了。部屋に戻るぞ、セイジ」  ナオは白衣を翻し、車椅子の背後に回る。そのまま椅子を押してリハビリセンターを後にする。  居住用スペースまでは、遠くはないが近くもない。  少女の足では、十五分はかかる。  やがて、大きな窓ガラスが嵌め込まれた明るい通路に出る。  通路の一方の壁が全てガラスになっており、広大な中庭部分が一望できる場所だ。 「中庭は好きだけど、地下道は通りたくないなぁ」  柔らかな陽光が、広範囲から差し込む通路は、施設内でも人気の憩いの場である。  人が優に十人は横に並んで進めるであろう、広い通路には、休憩用のベンチも設置してある。 「仕方ないだろう、地下道のオートウォークを使わないと疲れて仕方ないんだよ」  居住区画まで行くためには、一度、地下を通り、研究スペースを迂回しなければいけなかった。 「歩くだけで疲れるって、もうお年寄りなんじゃないの?」 「馬鹿言え、お前と変わらん年だ」 「四つも上だよ。お年寄り、お年寄り」 「お前はまだ十歳だろ。私だってまだ十四歳だ」  やがて二人は地下通路の入口へとやってきた。  地下通路は、施設の地下部分を縦横無尽に走っていた。  これはもちろん地上階にある施設同士をつなぐ通路であるが、同時に地下階の施設をもつないでい た。  小さめの町ならば丸々一つが入ってしまうほど広大な敷地内を、物資と人員の両方を運ぶため、通 路自体も広く、大きく設計されている。  いまも、大勢の人間が様々な目的で通路内を行き来している。 「そういえば」  ナオが口を開く。 「何?」  セイジ少年は、雑誌から目を上げて応じた。  この素直な少年は、自分の世話をしてくれている主治医に確かな信頼を置いており、その関心は雑 誌に向けるものを上回っている。 「さっきの、脳の話だがな」 「うん」 「お前の考えは、半分当たりだセイジ。人間の脳というのは、実はほぼ全ての部分が日常的に使用さ れているんだ。ただし、お前の言うように、オーバーヒートを防ぐために、信号の伝達経路が限定さ れている。つまり、全速力で走らなくても済むように、余裕を持たせているわけだな」  ナオは饒舌に話す。  自分の研究分野に関することだ。研究者として、また、年下の少年に話を聞かせる教師として、気 分が高揚しているのだろう。 「簡単に言うと、人間の脳には歩くときに使う部分や言葉を話すときに使う部分などがある。この研 究所では、このような部分を<ライブ・ゾーン>と呼んでいる」 「<ライブ・ゾーン>?」 「そうだ。絶え間なく電気信号のやり取りをして、活動している部分だからな」  安易な名前のようにも思えるが、実際のところ、研究をする上で呼び名は重要ではない。  むしろ、A領域とかB領域とかの便宜上の呼称ではなく、きちんとした名前を用いている分、研究 者たちの愛着のほどが知れるというものだ。 「だが、人間の脳の中には、どうあっても信号のやり取りをしない、動かない部分がある。これを私 たち研究者は<デッド・ゾーン>と呼んでいる」 「<デッド・ゾーン>……」 「うん。細胞としては生きているのに、全く活動を行なわない。脳としては死んだ部分だ。このよう な部分がなぜ存在するのかはよく分らない。あるいは、人間の進化の過程で必要なくなり、これから 先、数千年の間に消滅してしまうような物なのかもしれないがな。その場合、<デッド・ゾーン>は 脳の中の盲腸ということになるかな」  進化の過程において、必要のある部分は発達し、必要のない部分は衰退していく。通常の場合、そ の変化は一個人の時間軸で観測できるものではない。  それゆえ、今ある人体の機能が発達した部分に当たるのか、衰退している途中の部分であるのかは 分からない。  研究者が、知識を蓄積し、分析や推測をするしかないのだ。 「そのよく分らない部分を活性化させる研究が、世界中で、数十年前から続けられている。この研究 所を作ったウェルセラー博士が、数年前、ついに<デッド・ゾーン>を活性化させる方法を見つけた んだ」  ナオは、少年の車椅子を取りまわしながら言う。  バランスが悪いのか、あるいは少年の体に比して車椅子が多いゆえか、歩いている内にmどうして も片側に寄っていく。  同年代の少女と比較しても華奢な体つきのナオには、最新の半自動車椅子でさえ、少々持て余して しまう。 「ナオは、そのウェルセラー博士の弟子なんだよね」 「簡単に言うとな。最近は、一緒に研究をすることもあるがな」  十四歳という若さで一流の研究者となっているナオである。  通路を進んで、しばらくしたころ、ナオが足を止めた。 「やあ、カウラー博士」  息を弾ませて言った。  車椅子の操作は意外な重労働だった。 「おや、こんにちは、クラップマン博士。それとワタツミ君」  初老の男性が、ナオに答えて言った。同時に、体を折り曲げて、車椅子の少年に微笑みかける。 「こんにちは、カウラー博士」  セイジもナオにならって言う。  ジョセフ・E・カウラー博士は長身の男性だった。  ナオの同僚の中でも、どちらかと言えば年上の部類に入るような年齢で、人柄は温厚。この施設の 中では、ロボット工学に関する研究を行なっている。  カウラー博士は、自らの研究の象徴とも言える、巨大なロボットを伴っていた。 「こんにちは、ジード・テン」 「コンニチワ、ミスター・セイジ」  セイジはロボットを見上げて言う。  少年の挨拶に、ジード・テンは、意外なほどはっきりとした声で答えた。人間の声に限りなく近い 音声で受け答えできるように設計されているのだ。  卵を横にしたような頭部には、顔を思わせる配置でセンサー類が並び、ずんぐりとした胴体には、 人間を模した太い両腕が据えられている。しかし、指は三本しかない。胴体の下部には、脚ではなく 車輪と無限軌道。  平地では車輪を使い、段差がある場合や、荒れ地を進む場合には、多目的無限軌道を用いて走るの だ。  車輪を使った時の移動速度は、最大で時速八十キロ。無限軌道使用時には、最大で四十キロを出す ことができる。 「例の報告書ですが、今頃はあなたのデスクの上にあるはずですよ。申し訳ないが、私はこれから外 部へ出張なもので」  にこやかにカウラー博士が言い、手にしていたブリーフケースを、ひょい、と上げて見せる。  彼は長身だ。施設内での健康診断記録においては、身長一九八センチである。  後ろに控えるジード・テンは、その博士とほぼ同じだけの高さがあり、車輪を使用していないとき は一九〇センチ、車輪使用時には二〇〇センチになる。  ジード・テンの外見的な特徴は、むろん身長の高さだけではない。横幅も大きい。中でも一番大き いのは胴体であるが、それは、大人が二人、手をつながないと一回りできないような太さだった。  実はこのロボット、介助用である。  その太さの大部分は、特殊ゲル使用のクッションによるもので、骨組みに当たる本体は、遥かに細 いのだ。 「ありがとう、カウラー博士。恩に着ますよ」  簡単なやり取りのあと、軽く挨拶をして別れる。 「いつも不思議に思うんだけど、ナオって結構、偉い人なんだよね」  セイジが肩越しに言った。  ナオ、正式な名前はナオ・クラップマン。  およそ二年前に博士過程を終了し、その後、直接研究職に就いた。  掛け値なしの天才で、この研究所において、脳や神経関係の部署を任せられている主任研究者であ る。 「こらこら、私が偉いことがなぜ不思議なんだ。自慢じゃないが、これでも三つの大学で博士号をと った、嘘偽りのない研究者なんだぞ」 「博士号、って何?」 「……、今度説明してやる」  ナオはセイジ少年の頭を、車椅子の背もたれ越しに撫でた。  セイジ少年の足が動かなくなったのは、三年前からだ。  もともと、手術をすれば治る可能性が高い類の症状だった。ただし、完治して歩けるようになるま でには、かなりの時間がかかる。そういう病気だった。  知人を通じて少年の症状を相談されたナオは、現在研究中の新薬を使うことを考え付いた。この薬 品は、簡単に言えば神経組織の成長を促進させるものであり、その過程で、神経組織の回復も望むこ とができるのである。理論上は。  さらに、未だ発達段階の少年期の人間に使用すれば、より効果的に神経組織の回復を行える。  だが、実際にセイジ少年の症状を分析した結果、部分的な脊椎骨の変形が見られた。つまり、外科 的な手術も並行して行う必要があったのだ。  ゆえに、セイジ少年は投薬、手術、リハビリという三種類の治療行為を受けることになった。  投薬は、頻繁に行われるものではない。ひと月に一度だ。  手術は既に終了している。今は新薬の経過観察と、実際に歩けるようになった時のための、予備的 な筋力訓練を行なっている段階だった。  当初から長期的な入所を予測されていたセイジ少年だったが、持ち前の好奇心から、何事にも積極 的であり、所内の人々とも早くから馴染んでいった。  ナオとセイジ少年は、ナオがこの施設に勤め始めた頃に出会った。ナオは当初、あと何年かアカデ ミーに残るつもりだったが、セイジ少年と、治療に使われる新薬の効果に興味を引かれて、所属を移 ったのである。  別の角度から見れば、ナオが研究職に就く原因になったのが、セイジ少年であるとも言えた。  少年の治療を行なっている内に打ち解けた二人は、今や、本当の姉弟のような関係だ。  施設内の人々も、若すぎるほど若い天才科学者と、幼い患者の様子を、ほほえましく思っているよ うだった。  二人は、地下通路のオートウォークに乗った。  ナオもセイジも、手すりに設置されたウレタン製のハンドルを掴む。  もとが医療目的の研修施設だけに、車椅子に乗っている人間のことも考慮されている。オートウォ ークの動きに置いて行かれないようにハンドルを掴むのは不可欠である。  ナオは、車椅子に設置されているいくつかのボタンの内、一つを押す。  すると車椅子の車輪にロックがかかった。  この車椅子は電動機能が付いており、前部のコンソールで座る人間が自分で動かすことも出来る。  ナオは単にセイジと共に行動するゆえに、この電動機能を使わなかっただけである。 「セイジ、今日は実験があるから、これでお別れだ。また明日、様子を見に来るからな」 「うん、わかった」  研究者としての仕事もある上、主任という立場にいるナオは、実際のところ、セイジ少年といる時 間は短い。  しかし、双方の相性の良さとでも言おうか、二人の信頼関係は揺るぎのないものであった。  いつのまにか、周囲に人がいなくなっており、通路を進んでいるのはナオと、車椅子に座ったカエ デ少年だけになっていた。  それも、ある意味では当然。施設的には、今はまだ勤務時間中なのである。この時間に居住区画に 向かう人間は、仕事をサボっている者か、もともと仕事を持たない者くらいであろう。  居住区画が近付いてきた。  その時である。  通路全体が、大きく揺れた。 「な、なんだ?」  ナオは、咄嗟に天井を見る。  再び大きな揺れ。  続いて、天井から、土埃のようなものが落ち始める。  その後、けたたましく警報ベルが鳴り響いた。 「ナオ!」  セイジ少年の声がナオを呼ぶ。  少年は明確におびえていた。 「大丈夫だ、セイジ。きっと地震か何かだ、すぐに収まる」  セイジを安心させようと、ナオは明るく振舞った。  しかし、ナオの頭の中では、自分の言葉を否定する事実が、いくつも、さながらネットワークの検 索表示のように湧きだしていた。  この施設は、建設時に地盤を調査している、地震など起こるはずがない。  また揺れる。  今度は、何か低い音も付いていた。  腹の底に響くような、雷のような音。 「あれは……」  ナオは直感した。  あれは爆音である、と。  科学者こそ、直感を信じる人種である。  それは、直感は積み重ねられた経験や知識から、無意識に近い意識レベルの分析によってもたらさ れた結果であると考えるからだ。  つまり、周囲の状況を、電光石火で考察しているわけだ。  この段階になって、やっと施設内放送が流れた。 「非常事態発生、非常事態発生。現在、施設内に何者かが侵入し、破壊活動を行なっている模様。施 設職員は所定の手順に従って非難行動を取って下さい。繰り返します……」  ナオは、放送が耳に届くや否や、車椅子を押して通路を進む。  ともかく、地上階に出なければ危険だという判断だった。  セイジ少年は、蒼白になりながらも、わめきたてることもなく、車椅子にしがみついている。  ナオは、少年の頭を撫でながら言った。 「大丈夫だ、セイジ。私が守ってやる」  ナオは素早く車椅子のロックを外し、オートウォークから出て、地下通路の出口を目指した。  と、しばらく収まっていた爆発が、再開された。  しかも、今回は近い。  揺れも激しくなった上、明確に爆発音が聞こえた。  ナオは、遠くに見える通路の出口に、誰がいるのを確認した。  遠すぎて、誰なのかは分からない。 「おぉい、こっちに……」  そこまで言って、ナオは口をつぐんだ。 「だめだ、ナオ!」  セイジが袖を引いたのだ。 「どうした?」  顔を青白くさせながらセイジ叫ぶ。 「あいつら、ナオを狙ってるんだ!」 「なに? どういう……」  言いながら、ナオはちらりと通路の出口を見た。そこにいるのは、集団だった。  遠目には、四、五人ほどに見える。  ただし、普通ではない。  全身黒尽くめ。軍用のボディアーマーを着用し、手にはアサルトライフルを持っている。 「まさか!」  ナオは車椅子を反転させた。  そして、小走りに進み、ある程度行くと、不意に壁の一部を叩いた。  するとどうだ、ナオの拳があたった部分から、電子コンソールが出現したではないか。  ナオは、壁に隠されるように設置されているコンソールに数字を入力する。  驚いたことに、今度は、壁の一部が、すとん、と下に落ちて、通路が現れた。  これは、関係者以外には知らされない、非常用の隠し通路なのだ。 「セイジ、しばらく我慢しろよ!」  ナオは駆け出した。  背後で壁がスライドした音が聞こえた。  だが、安心はできない。  爆弾で施設を破壊している連中だ、壁を壊すことなど造作もあるまい。  足がもつれた。  ナオは、自分が軍人ではなかったことを、人生の中で初めて呪った。  軍事でなかったとしても、スポーツ選手だったら。  走るのが得意だったら。  いや、せめて大人だったら。  それなら、この子を守れるのに! 「くそっ」  涙が出てきた。  だが、ナオは自分の感情を徹底的に押し殺すことにした。  考えるのが先だと判断したのだ。  相手の狙いは何だろうか。  セイジは自分を探してきたと言った。  それは本当か?  いや、そもそも、なぜセイジにはそれがわかった?  そこまで考えた時、背後で爆発音がした。  真相はどうであれ、やつらは追ってきている。  いったい、何者なのか?  分からない。  自分たちは助かるのか?  分からない。 「くそっ!」  ナオは、必死になって、車椅子を押した。  若き天才の逃避は、唐突に終わった。  目の前に壁が現れたのだ。 「ナオ!」  セイジが不安そうに声を上げる。 「大丈夫、出口だ」  入り口でしたことと同じように、ナオは壁を叩き、コンソールを出現させる。  数字を打ち込むとすぐに、壁が割れ、強い光が差し込んできた。  そして、そこから見える風景に、ナオは驚愕を禁じ得なかった。 「な、なに……」  そこは絶壁の中腹にあったのだ。  上には、天にも続くかと思える岩壁。下には、気が遠くなるほどの高さを感じる空間。そして、さ らに下には、大きな川の流れが見えた。 「これは、……、そうか!」  ナオの頭脳に閃きが走った。  再び、壁を叩くと、扉のスイッチとは反対側に、二つ目のコンソールがあった。  数字を入力すると、今度は、体に背負うためのバックパックが現れた。  ただし、一つだけ。  迷ったのは一瞬だった。 「セイジ、背もたれを外すぞ」  ナオは車椅子の背もたれを外すと、少年にバックパックを背負わせる。  背後から、人の気配が迫る。 「こっちだ、明りが見えるぞ!」 「追え、逃がすな!」  遠くから聞こえる声は、恐怖心を掻き立てるのに十分なものだった。  ナオは、セイジの顔を正面から見た。  少年の目には、涙が溜まっている。  だが、それは一滴も、下に落ちてはいない。 「偉いぞ、セイジ。泣かなかったとは、さすが、男の子だ。日本の男の子は、心が強いな」  微笑み、少年の頭を撫でる。 「ナオ?」  セイジは、ナオを不思議そうに見上げた。 「お別れだ、セイジ。私は行けない。強く生きろ、私の分まで」 「ナオ!」  その後の少年の叫びは、強風によって押し流されてしまった。  ナオが、車椅子を扉の外へと押し出したのだ。  扉から外へ出た時、車椅子と少年とが離れるように計算して、少年の体に強い勢いを付けておいた のは、さすがと言うべきか。  あのバックパックは、パラシュートではない。  スイッチを押すと、約四秒で特殊樹脂製のシートが広がり、真円形のゴムボートのようなもので対 象者の全身を覆うのである。  それゆえ、このような断崖絶壁から飛び降りたとしても、全身をクッションでまれているようなも のであるから、危険が少なくて済むのだ。 「さようなら、セイジ」  ナオは、小さく呟いた。  その頬には涙が流れている。  背後からは大きな足音が、その他の雑多な音と共に近づいている。  ナオには分かっていた。  これから自分は彼らに拘束されるだろう。あるいは殺されるかもしれない。  しかし、恐怖心から涙が流れているのではない。  少年との別れが辛くて、涙が流れているのだ。  その時、ひときわ大きな爆発音が、辺りを揺るがした。  ナオはふと、上の絶壁を見上げた。  その瞳に、巨大な何かが、落下してくるのが映った。 (2) ウェルセラーの悲劇  二〇四五年、ウェルセラー研究所が原因不明の爆発事故を起こし、多数の死者を出した。  被害者の総数は、一一九〇人。  生き残った者は、事故当時施設内にいなかった外部作業員、もしくは外部機関へ出張していた一部 の研究者のみ。それらを合わせても百人に満たない。  ウェルセラー研究所は、事実上、全滅したと言える。  この、甚大な被害をもたらした事故は、二〇二八年に終結した第三次世界大戦以来、最大のものと され、<ウェルセラーの悲劇>として世界に広く報道された。  この事故があまりにも大きく報道されたために、研究所の東を流れる川で意識不明の少年が救助さ れたという話は、一般には広まっていない。  この少年は、身分を証明できるような物を一切所持していなかったが、外見から東洋人であると判 断され、関係者の捜索が行われた。  およそ一年ほど地元の病院で保護されていたが、幸運にも日本にいた家族と早い段階で連絡を取る ことができたため、故郷に帰ることができた。  保護された後に病院で検査を受けた際、少年はなぜ川に流されたのかを全く覚えていなかった。ま た、少年の体には手術の痕跡があり、脚と腰の筋肉の発達が他に比べて著しく遅れていたことから考 えて、少なくとも数年間は半身不随の状態にあり、歩行を行なっていなかったものと推測された。  ただし、保護された直後から、足腰の機能には問題がなく、少年自身も歩くことに支障がなかった ので、治療は完了していたものとみられた。  それから十年。  二〇五五年となった現在、少年は成人し、自らの日常を過ごしていた。  自らの人生を構成する記憶に、一年ほどの空白期間があることは自覚していたが、それでも時は流 れて行くものだ。  セイジ少年、いや、綿津見誠司は、故郷日本で、平凡とは言えないが決して特別でも過激でもない 時間を過ごしていた。  ある事件と関わるまでは……。 「こんにちはぁ〜」  少し間延びした声が住宅街の一角に響く。  声の主、綿津見誠司は、端的に言うと緊張していた。  この家に住んでいるのは、親戚とは言え、もう数年来、まともに顔を合わせていない。  今回の訪問に当たって、電話で連絡はしてあるが、その際にも、受話器を持つ手に汗を握っていた ことを思い出す。  電話は苦手なのだ。  ドアのインターフォンに設置された小さなライトが点滅する。  内側からの反応だ。  誠司は、もう一度、ボタンを押して声をかける。 「こんにちは、綿津見誠司です」  フルネームを言う必要はなかったのかもしれないが、緊張感から、過度に丁寧さが要求されている 気になってしまう。 「はいはい、いらっしゃい」  朗らかな声が返ってくる。  電話口で聞いた覚えのある、叔母の声だ。  かちり、と音がしてドアが開く。その動きは適度に緩やかで、家の玄関が、ちらり、と見え、誠司 に、これからこの家の人間に挨拶をするのだ、という決意を与え、同時に、心のゆとりも与えてくれ た。  覚悟が決まってしまえば、あとはやることをやるだけである。  しかし、誠司の決意も、最初でつまずく結果となる。  家の中から出てきたのは、多少なりとも耐性のある、あるいは誠司自身が想定していた叔母ではな かった。 「やあ、ひさしぶり、夏帆ちゃん」  顔を見せたのは従妹の浅見夏帆。  誠司の記憶に間違いがなければ、高校生のはずだ。  数年来、顔を見ていなかったのは叔母と同様で、高校も何年生なのかは分からない。 「え、誠司? ……、何か用?」  取りつく島もない。  久しぶりに会ったのは確かだが、ここまで疎遠になったか、と少し悲しくなる。以前はもっと気さ くに話せていた気がする。 「今日からウチに住むのよ!」  夏帆の背後から、唐突に別の声がした。  ひょっこり、という調子で、髪の長い小柄な女性が現れた。夏帆よりも頭一つ低い。  誠司の叔母である、浅見京子だ。 「あぁ……、そういえば、そんな話も聞いたような、そうでもないような」  朗らかに笑い、誠司を迎える気が溢れそうになっている京子にくらべ、夏帆は今一つ要領を得ない 様子である。 「あんた、まだ寝ぼけてるの。顔洗ってきなさい」 「んあぁぁ……」  どうやら、夏帆は起きぬけの状態だったようだ。それも当然だろう、現時刻は午前六時。早朝であ る。  結局、夏帆は京子に背中を押され、家の中に引っ込んでしまった。 「あ、あの、大丈夫なんですか?」  誠司は、一抹の不安を抱えながら、言った。  本当にこの家にいてもいいのだろうか。 「ダァイジョウブよ、あの子だって誠司君を知らないわけじゃないんだし。それに、離れを使っても らうわけだから、事実上は別居だしね」  笑う京子に促されて、言うところの<離れ>に通される。  浅見家は、フランチャイズ・ドラッグストア<ASAMI>を経営する一族で、どちらかといえば 裕福な家柄である。  平均的な家屋よりも大きな規模を持ち、もはや屋敷とも呼べるような邸宅には、ゲストルームとし て、平屋の別棟が設置されていた。  誠司は、叔母の後について<離れ>に入ると、一通り、間取りを確認しつつ、今回叔母夫婦の家に 厄介になるに至った経緯を思い返していた。   事の始まりは単純で、誠司の両親が急遽、勤め先の配置換えを受け、海外勤務を命じられたことに ある。  これまでは実家から大学に通っていた誠司だが、降って湧いた一人暮らしの可能性に、内心、好奇 心を傾けていた。  誠司としては、年齢的にも成人したことであるし、わざわざ屋移りすると手間もかかるし、実家で 気ままに暮らすのもいいかと思っていた。  ところが、過去の、とある出来事から、両親が誠司の一人暮らしに抵抗を示した。  母親である綿津見静子が、何人かの知人に連絡を取った結果、ちょうど同一市内に住んでいた叔母 夫婦の家に居候することになったのだ。  これを不運と思うには、誠司は真面目すぎたし、善良すぎた。  叔母の京子は、誠司を離れに送り、設備の説明をした後、「手伝うようなことがあったら言ってよ ね」とだけ告げて去って行った。  現在、誠司は数日分の着替えと、講義で使う資料をダウンロードしたモバイルPCを持っただけの 軽装。荷物は両親が実家を離れる際に郵送する手筈となっている。  今日は金曜日。平日であり、大学もある。  誠司は早朝の行動が苦手ではないし、浅見家も朝が早いということだったので、登校前に身体のみ の引越しという強行軍が可能となったのだ。  講義に出席するため、誠司は鞄の中身を整理する。  このダークグレイの鞄は、数年前から愛用している、耐久性抜群のナップザックだ。  いくつかあるポケットの内、一つから、小型の端末を取り出した。それは薄型液晶画面が付いた手 の平に収まるほどの大きさのものだ。  ふと、人の気配がした。  顔をあげると、部屋の入口に、夏帆が立っていた。 「夏帆ちゃん、どうしたの?」  どうやら完全に目が覚めたらしい、浅見家長女が、じっと、こちらを見ていた。 「ライセンス、持ってるって聞いた」  唐突に言う。  夏帆は、冷静な性格だ。普段から訥々とした口調で話す。  以前、別に何とも思っていないのに怒っているように見られてしまう、と愚痴を言っていたことを 思い出す。  今日から男の部屋になったにもかかわらず、頓着せずに入って来た夏帆が、部屋の壁にもたれなが ら誠司を見つめる。  どうやら、幼馴染みであり親戚でもあるという気やすさを思い出してくれたらしい。  誠司にとっては、それは有難いことだった。 「ライセンス? あぁ、LDZね」  誠司は、今しがたザックから取り出した端末を差し上げて見せる。  LDZ、エル・ディ・ズィ、と呼ばれるものがある。脳内において、人間が生涯に一度も使わない とされている部分のことだ。  ラスト・デッド・ゾーン(Last・Dead・Zone)。人類史上、最後の空白、という意味を込めて、そう 名付けられたのだという。  その原理は、いまだ完全には解明されていないものの、脳の中の当該部分を活性化させることによ って、人間は通常には無い付加能力を手に入れた。  第三次世界大戦後、急速に研究が進み、ある程度は自由に能力の制御が可能となった。  現在、LDZデバイスの所持は連邦法によって禁止され、ライセンスを取得することによって、能 力を覚醒させることができる。 「いいなぁ、LDZデバイス。先月の適性試験、駄目だったんだよね……」  夏帆が言う。羨ましそうな態度がありありと見てとれる。「怒っていないのにそう見られる」とい う話を、誠司は信じていない。彼女は思っていることが表面に出やすい。  少なくとも、誠司から見れば。 「いやぁ、どうかな」  誠司は言った。  実際のところ、このLDZの活性化は、実生活に必須のものではない。しかし、あると便利ではあ るため、一般人のライセンス所持者数は増加の一途をたどっていた。 「確かに、もう誰もが持っていて当然、みたいな資格ではあるけど、これがあったからといって、確 実に利益につながるかというと、それは疑問だし」  そもそも、LDZを活性化させたとして、何の能力も生み出さない場合もある。  この適性試験は、満十八歳から受けることができ、LDZに刺激を与えても問題ないか、という健 康面での適性と、LDZデバイスを使用して付加能力が現れるか否か、という能力面での適性の、両 面をはかるものだ。 「それに、適性試験の結果なんて、数か月ごとに変わるものだよ。回数制限はないし、いつでも受け られるんだから、諦めないように。僕だって、合格までに五回もやったからね」  誠司は、強化ウレタン製のベルトに取り付けられたLDZ活性化装置、通称LDZデバイスに左腕 を通す。そして、手首に近い位置で、ベルトのボタンを押す。すると、しゅるしゅると、見る間にベ ルトが縮んで、腕の太さに合った長さになる。  腕の外側にはデバイス本体があり、液晶画面が見えている。色はブラック。他に、レッドとイエロ ーのバリエーションがある。  誠司が持っているB級デバイスは、普通ランクであり、時計機能が付いている。LDZ活性化装置 としてだけでなく、腕時計としても使えるように設計されているあたりに、現代の世間にLDZデバ イスがどれだけ認知されているかが、象徴されているような気もする。  誠司は、鞄を取り上げ、立ちあがる。 「どっかいくの?」 「ああ、ちょっと大学に」 「へぇ、真面目に通ってるんだ」  夏帆の声には、茶化すような響きがあった。 「どういう意味かな……」  誠司は苦笑いを返す。 「あはは、いってらっしゃい」  夏帆の笑い声は、母親の京子に似て、とても朗らかだった。  誠司は、この時になってやっと、新生活に明るい展望を見ることができたのだった。 (3) 事件  新住所からの初めての登校となり、自分でも子供っぽいと思いつつ、浮き立つような気分を味わっ ていた誠司だったが、大学構内の掲示板を見て肩を落とした。  なんと、午前の講義三つが、揃って休講になっていたのだ。しかも、今日はその三つしか講義がな い日である。  つまり、はりきって登校してみたら、実質的な休日だったことが判明したというわけだ。  大学においてはよくある話トップスリーだが、学生にとっては納得のいかない話トップスリーであ る。  叔母の家から誠司が通う大学までは電車を乗り継いで三十分ほど。決して遠いわけではないが、近 いわけでもない、なんとも微妙な距離にある。  大学に来て、そのまま帰るというのも、なんとも釈然としない話である。  「どうするかな……。とりあえず、住所変更でもするか」  そう思って、大学の管理棟に向かおうとした時、誠司の前に、背の高い男が現れた。  始め、誠司は、その男が自分に用のある人間とは思っていなかった。  その男の存在自体が、意外だったのだ。  金髪碧眼、筋骨のたくましい容貌。眼光は鋭く、どこか野生動物のような緊張感を漂わせた、象牙 の塔には似つかわしくない男であった。 「あぁ、その、君が、綿津見誠司か?」  低い声だ。  しかし、なぜか自信がなさそうで、戸惑っているように聞こえる。容姿と声の調子との差異に、あ る種の滑稽さがあった。  それゆえに、人見知りのきらいがある誠司も、冷静な応対ができた。 「ええ、そうですけど。あなたは?」  「俺はリック。リック・フォウスター」  リックと名乗る男性は、ジャケットの胸ポケットから、カードが二枚重なった形の身分証を取り出 した。  そこには、顔写真付きのIDと、金色のバッジ。 「刑事さん、なんですか?」 「正確には連邦捜査官だけどな。で、ちょっと話があるんだが」 「僕にですか?」  その後、誠司はリックを伴って、大学構内のカフェテリアに移動した。  休講といい、この出会いといい、完全に予想外の展開だ。  学生全員を収容できるという、三階建てのカフェテリアは、燦々と煌めく陽光を、巨大なガラス窓 から取り入れており、非常に明るい。  窓際の隅に席を取った後、テーブルには、二人分のコーヒーが置かれた。 「悪いな、手間を取らせて」 「いえ、……日本語、お上手ですね」  とりあえず、話題もないので、無難な話を切り出す。 「あぁ、いろいろあってな。日本人の知り合いが多いんだ、子供の頃から」  しばらく、コーヒーを飲む動作のみを繰り返す、男二人。  あまり良い雰囲気とは言い難い。 「一服、いいか?」  唐突にリックが言う。  誠司は一瞬、何のことか分からなかったが、すぐに喫煙の許可を求めているのだと察しがついた。 「ええ、どうぞ」  誠司が言うとリックは圧縮されたタバコと、パイプを取り出した。  大戦以後、禁煙の気風は落ち着きを見せ、この世界でも有数の伝統を誇る<悪習>は、何度目かの 盛り上がりを見せていた。  実際は、戦後復興でそれどころではなかったので禁煙とかどうでもよくなった、というのが世論の 中心である。  新たな喫煙の手法として、特殊なフィルターを装着したカバーをタバコにかぶせ、煙を浄化してか ら外部に排出するというものが流行している。その特殊フィルターが、刻みタバコ用のパイプを模し ているというのは、愛煙家のこだわりというものだろうか。  パイプ上部の穴に高密度に圧縮された固形タバコを入れ、火を付ける。そして付属のカバーをかぶ せれば、煙はほぼ完全に浄化される。唯一の例外は吸い口のみである。  この仕組みによって、タバコの煙は喫煙者の口内にのみ吸い出される形となり、副流煙を嫌う人々 にも配慮している、という体裁を形作っている。 「ふう」  リックは、一息、タバコを吸って、色の薄い煙を吐き出した。  吐き出された煙は、色が薄いというより、ほぼ見えないほどに薄まっている。しかし、それでも、 圧縮タバコの風味は十分に確保されているという。 「君は、タバコはやらないのか?」  取りとめのない話題が続く。  連邦捜査官が、一般人である誠司を、用もなく呼び出すはずもない。  となれば、よほど切り出し難い話ということになるだろうが……。  誠司は、少しだけ不安になった。  捜査官がなかなか切り出せない話となれば、身内に関することか、と予想する。まさか、両親に何 かあったのだろうか。昨日別れたばかりで、その時には何の異常もなく元気だったのだが。  いや、まてよ、もう一つ、自分が何かの事件の容疑者であるという可能性があった。  しかし、犯罪に関わるような行動を取った覚えはない。 「どうした?」 「あ、いえ、なんでも。そうですね、喫煙の習慣はありません。酒は好きですけどね」 「ほう、意外だな。あ、すまん、別に馬鹿にしているわけじゃないんだ。酒好きを公言するには、君 は若すぎるような気がしてね」  そう言うリック自身、さして年もとっていないように見える。  捜査官という職業上、精神的に老成するということなのだろうか。  誠司は、リックの顔を観察しながら思った。 「自分の好みをはっきり言うのは、相互理解を深める上で肝要だと、講義で」 「なるほどな、熱心な学生ってわけだ」  リックは笑った。  奇妙に愛嬌のある笑顔だった。  ただ、もともといかつい風貌である上に、遠慮なく歯をむき出しにして笑っているため、どうして も、<飛びかかる寸前の猛獣>のように見えてしまう。 「ぷっ」  その雰囲気自体がおかしくて、誠司も笑った。  少しの間、二人の間に緩やかな空気が流れる。 「ははは、さて、いつまでもこうしてはいられないな」  本題に入ろう、とリックは笑いを引っ込めた。  捜査官の顔になった男は、胸ポケットから一枚の紙片を取り出して言った。 「実は、こいつを預かってね。君もこれを見れば、俺のことを信用してくれるだろうということなん だが」  誠司は、テーブルの上に置かれた紙片を手に取った。  端的に言ってしまうと、それは名刺だった。  手のひらサイズで、四角く、表面には姓名と所属、電話番号とメールアドレスが記載されている。  一瞬の後、名刺の表面画像が切り替わり、目つきの悪い髭面の中年男性の顔が映し出される。  しばらくして、また文字情報の画面に変わる。  極めて薄い、発光ディスプレイの名刺である。 「リック捜査官は増山警部のお知り合いだったんですね」  名刺を返しながら言う。  どうやら古い名刺であるらしく、ときどき画像がぶれる。 「アメリカで、何度か組んだことがあってね。あのおやっさん、もとは俺と同じアメリカ支部の出だ からな」  リックは大きな手で、首筋をごしごしとこすった。  その様子を見て、誠司は、目の前の捜査官が、止むにやまれず、この大学へやって来たのだろうと 当たりを付ける。 「警部の紹介ということは、事件の関係なんですね」 「察しが良くて助かる。君が、おやっさんの捜査に協力してくれたと聞いたんでね」  「協力したといっても、二、三の証拠探しに関わった程度で……」 「それが欲しいんだよ。証拠さ」  リックの眼光が、出会ったばかりの頃のように鋭くなった。 「まずは、これを見てくれ」  リックはジャケットの内ポケットから、一枚の写真を取り出した。 「これは……」  それは実に凄惨な写真だった。  男性だろうか、写真の中央に人間が映っている。  より正確に言えば、人間の残骸と言えるものだ。  まず、その人物は椅子に縛り付けられている。そして、頭と顔の皮膚が剥ぎ取られており、表情筋 や眼球が剥き出しになっていた。  極めつけは、頭部だ。  頭蓋の上部が切り取られていた。 「この犯人の目的は分からない。いや、殺人を犯しているのは見ての通りだ。分からないのは、殺す ことが目的なのか、怨恨やその他の理由があっての行動なのか、ということだ」  同種の事件が起こって、すでに三年が経過しているという。  その期間に、同じ手口で殺害された人は十五人。  性別、年齢、人種、職業、出身地、その他、共通点になりそうなものは全て調べたが、被害者同士 に接点は見当たらない。 「現場には犯人の指紋はおろか、毛髪、汗、足跡もない。通常の手段では、何も発見できない」  リックの表情は曇っている。  彼はこの事件を最初から担当しているのだという。  三年間、必死に捜査してきたが、犯人の目星も付かず、物的証拠も皆無。 「おやっさんからは、君はごく普通の学生で、LDZを取得したのも、単純に将来を見据えてのこと に過ぎないと聞いている。だが、一度だけでいいんだ、俺に手を貸してくれ」  誠司は、何度か警察の捜査を手伝ったことがあった。しかし、それは自分で望んでやったことでは ない。  一学生に過ぎない誠司には、事件を捜査する権限や能力はない。少なくとも、誠司自身はないと思 っている。ただ、誠司の持つLDZ能力が、捜査や探索に適していたというだけのことである。  そもそも、誠司がLDZライセンスを取得した理由は、ライセンスを所持していれば就職先の幅が 広がるからという、まことに単純なものであった。  決して、警察官や連邦捜査官に協力して、凶悪犯を捉えようなどとは考えたこともなかったのであ る。 「頼む、日本風に言うと、藁にもすがりたい状態なんだ。一度だけでいい!」  リックは、勢いよく頭を下げた。テーブルに額をこすりつけてさえいる。  その様を見た瞬間、誠司は反射的に言ってしまった。 「分かりました、分かりましたから、頭を上げてください」  誠司が自分の安請け合い体質を、まさに死ぬほど後悔したのは、この出来事から数時間後のことで あるのだが、今この時には、気付くはずもない。  むろん、リックも、この件が発端となって、未曾有の危機に見舞われるなどとは、微塵も思ってい なかった。    L.D.Z @ 了    L.D.Z A に続く


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