L.D.Z


A 見えない足跡と、それを追う者


(1) 犯行現場へ  リック・フォウスターの運転する四輪駆動車は、実際のところ快適とは言えなかった。  タバコと、コーヒーの匂いが充満しており、食事の残骸と思われる紙屑がいくつか落ちている。  誠司は、こういった場合、あまり細かいことに拘らない性格だったので、何とも思わなかったが、 一般的に見ても、リックの駆る<ブランスター>セダンタイプは綺麗な状態ではなかった。 「悪いな、いつもこんな感じで」  リックは軽快にステアリングを操作しながら言った。 「相棒以外を乗せることって、あんまりないんだ」  苦笑いを浮かべる捜査官。  この自動車が、個人所有のものなのか否か、誠司には判断がつかない。ただ、はっきりしているこ ともある。それは、リック捜査官が、この自動車を我が家のように使っていることと、彼の相棒もま た同じように過ごしているということ。  これも現場主義の現れということなのだろうか。 「その相棒さんは、どうしたんですか?」  誠司は、話題に上った相棒の姿を見ていなかった。リックは大学にいた時から一人で行動していた のだ。 「アメリカ地区の捜査現場で事故にあってね。入院中」 「入院、それは災難ですね」 「まあ、よくあることじゃないが、珍しくもないさ」  肩をすくめるリック。  その軽い調子の受け答えから、相棒の回復も近いことがうかがえる。 「やっぱり、危険な仕事なんでしょうね。捜査官って」 「ああ、まあ…。撃たれたり、殴られたり、いろいろあるからな」  肩をすくめる捜査官。 「そういえば、増山から聞いたんだが、君のサイコメトリーについて」  リックは言った。その口調はどことなく硬さを感じさせる。  相手の緊張を察するのは、誠司にとって、数少ない特技の一つだった。それは「緊張する」という 状態が、彼にとって馴染みの深い感覚だったからだ。 「そういえば、そんな名前が付いているみたいですね」  誠司はリックに答えて言った。自分の声が少し硬くなっているように感じる。  精神的な緊張によって、初対面の人間となかなか打ち解けられないのは、誠司の悩みの種である。 大学への進学以降、様々な感性を持った人間と触れ合う機会が増えた。そのことが誠司自身の、精神 的な許容範囲を広げることにつながり、良い意味で、気やすく他人と話せるようになっていった。  かつて、誠司は社会的地位のある人物を苦手としていた。  学校の教員、会社社長、役人。  その区分けから言えば、リック・フォウスター捜査官は、誠司が苦手とする人物の要件を満たして いる。 「みたい、って他人事みたいな言い方だな」 「すみません、自分の能力はあまり使ったことがないんです」 「そうなのか」 「ええ、もともと就職に有利だからライセンスを取っただけですからね」  車中に沈黙が訪れる。誠司は沈黙が嫌いな人間ではない。むしろ、適度な静けさがあった方が落ち 着く。  しかし、今は何か話題が欲しかった。  それと意識せず、ため息が漏れる。 「退屈だろう」  リックが言った。 「悪いな、俺も、なんていうかこういうの慣れていないんだ。事件以外の話題が思い浮かばない」 「いえ、すみません、気をつかっていただいて」  この時、誠司は自分のの心の中に、ほんのわずかではあったが、リック・フォウスターという男へ の親近感が湧き上がった。  もっとも、それは、後になって「ああ、そういえば」と気がつくような、本当にささやかな変化で しかなかったのだが……。  誠司は、リックの整った横顔から視線を転じ、助手席の窓から景色を見る。電気自動車は、誠司の 生まれ育った場所、第十三区安住市を疾走していた。そこは市の中心部であり、街路沿いには様々な 種類の店舗が立ち並ぶ場所であった。  深夜まで営業している焼肉屋、寿司屋のチェーン店、日本地区では知らぬ者のないほど有名なバー ガーショップ、世界的に有名なコーヒー専門店。 「ここ、知ってますよ。通学路だった」 「だった、って過去形なのか?」 「引っ越したんです、今朝」 「今朝?」 「ええ、まあ。いろいろありまして」  誠司は、リックに両親の転勤と、自分の居候先のことを話した。  渡りに船、とでもいおうか、誠司にとって、話題が見つかったのは嬉しいことだった。 「そうか、朝は引っ越しで、午後はドライブ。忙しいな」 「全くです」  軽く笑い合い、二人は、再びそれぞれの活動に戻る。  幾度目かの沈黙。  しかし、前のものとは明確な違いがあった。  誠司は自分自身の緊張が薄らいだのを感じていたし、横目に見るリック捜査官の表情も、幾分か柔 らかくなっているように見えた。  助手席に座り、さしあたってすることもない、荷物同然の誠司。  車窓越しに見えるのはありふれた風景。  プラスティックのボールを浮かび上がらせ、手を触れずにジャグリングする大道芸人。  ブリーフケースを片手に、何の変哲もない革靴で地面を滑るサラリーマン。  全く足を動かしていないのに、疾走する自転車ライダー。  公園では、中年の男性が噴水の水面で片足立ち。似顔絵画きの女性は自分の皮膚や髪の色をめまぐ るしく変えている。確か、あの似顔絵画きとは、何度か挨拶をしたことがあった。  それは誠司にとっての日常。現に、今朝までは毎日目にしていたし、これからも目にするであろう と思っていた。  人生とは分からないもの。  大道芸人や公園の似顔絵画きとは、もうしばらくは会えないだろう。もしかすると、二度と会わな いかもしれない。  今日の出会いも、予想外の出来事だ。  連邦捜査局の捜査官と一緒に自動車で移動。しかも行く先は犯罪の現場。  本当に、人生とは分からない。 「目的地が見えてきたぞ」  リックが言った。  その視線の先には、淡いクリーム色に染められた、八階建ての四角い建物。  駐車場の入口には大きなアーチ据えられており、アルファベットで文字が刻まれている。それを潜 り抜ける際に、なんとか判する。この大型アパートメントの呼び名は、ダイス・プレイスというらし い。 「どういう意味だろう」  思わず口に出す誠司。 「何が」  リックが反応した。 「ダイス・プレイスって、どういう意味なんでしょうか」 「ああ、そのことか。ここのオーナーがダイスで所有権を勝ち取ったんだとさ」 「そ、そうなんですか……」  誠司は、建物一つを賭けるダイスの勝負に興味がわいた。しかし、それも一瞬のことで、すぐにそ んな極端な世界には関わりたくないと思いなおした。  人生とは、不可思議なことがたくさんあるものなのだ。  きっと、その内の一つくらいは、知らなくてもいいことに違いない。  誠司はそう思った。 (2) 能力  アパートメント「ダイス・プレイス」は、一般によく見られるような箱型の建物だった。六階建て で、各階に八つの部屋がある。  目的の部屋は四階だった。  エレベーターが整備中とのことで、階段を使って登る。 「連続犯はあらゆる状況を想定して動く。まずは獲物の物色」  何がきっかけになったのか、誠司にもよくわからなかった。しかし、事実として話題は捜査方法を 主体としたものとなり、必然的にリック捜査官が講師の役を務める形となっていた。 「見られても怪しまれないように、人ごみや公園、電車の中、公共の施設を利用して、対象を観察す る。そのあと人目がなくなったところで犯行に及ぶ」  上を向き、遅くもなく早すぎもしない速度で階段を上る。 「通常、広い範囲で犯行を行なうが、自宅や職場、その他の自分と関係がありそうな場所を避ける傾 向がある」  吹き抜けになっている階段は、横幅が広く、人が三人程度は一度に通行できそうな様子だった。  クリーム色に塗られた壁と、ほぼ同色の床と階段。  所々に採光窓が設けられており、階段全体は非常に明るい。 「そして、やつらは大抵の場合、自分の犯行に執着心を持ちこむ。決まった場所、決まった手口。い ろいろなパターンが作り出される」  連続犯は、警察に捕まらず、犯行が成功するたびに大胆さを増していく。自信を付けるのだ。  このやり方を貫けば、絶対に捕まらないという自信。  そしてそれは、自分の欲望を満たす方法を見つけるということでもある。叶えられると分かったと き、欲望は肥大化し、犯行の頻度が上がる。  叶えずにはいられなくなるのだ。  慎重さを犠牲にしても。 「結果として、犯人は油断する。そこが俺たちにとっては付け入る隙になるわけだが、今回の犯人、 <パーリング・ジョン>には、そういった油断が全くない。もう十五回目だというのに、だ」 「パーリング?」 「ああ、やつは皮を剥ぐ。だから<パーリング(皮はぎ)・ジョン>と呼んでいるんだ」  リックの表情は、後ろを進む誠司からは見ることができない。しかし、陰鬱そうに沈んだ声から、 その無念さが伝わってくるように思えた。 「これまでの十五件、ほとんど手がかりがない。抜け目のない奴だよ、全く……」  やや怒気をはらんだ、押し殺したような声が誠司の背筋にも寒気を呼び起こす。 「アメリカ地区の犯人が、突然、日本に?」  誠司は、ふと疑問に思ったことを口に出した。 「ああ、そこが腑に落ちない。連続殺人犯で、地球連邦全体を股にかけて犯罪におよんだ例はないわ けじゃない。しかし、やつの場合は明らかにアメリカ地区が主体だった。これまでに地区外に出たこ とはなかったんだ」  連続犯としてのパターンが変わった。  リックはそう言った。 「パターンが変わるってことは、何か大きな原因があるはずなんだ。それとも、あるいは……」  若い二人の男にとって、四階分の階段は、さして苦労を要するものではなかった。その証拠に、二 人は話を続けている間に目的の階層にたどり着き、恐るべき犯行の現場となった部屋は目前に迫って いた。 「ここだ、四〇八号室」  角部屋、入口は北を向き、南側に大きな窓があった。このアパートメント自体が丘の上に建ってお り、窓から外の景色がよく見える。  夏を迎えようとする七月の日差しが柔らかく室内を照らしている。  捜査官が一緒にいなければ、この場所が犯行現場などとは思えない。  ただ、誠司は、どこか得体の知れない不安を感じていた。そこで凶悪な犯罪が行われたという意識 がそうさせるのか。分からなかった。 「ここは、三週間前の犯行現場だ。一番新しい」  リックは靴を脱ぎ、誠司を先導するように部屋に入る。  地球連邦が発足して、日本は国家から、連邦所属の一地域となった。しかし、日本古来の「家の中 では靴を脱ぐ」という習慣は、無くなっていない。  現にこの部屋にも、玄関があり、靴置き場があった。  誠司もリックに続き、靴を脱いで部屋に入った。 「この部屋、入ってもよかったんですか?」  捜査官の背中に、誠司は声をかけた。 「ああ、捜査は一通り終わってるからな。捜査官も、鑑識も、部屋の隅々まで調べ尽くした」  部屋は広かった。  中心部にリビング。カウンターがあってキッチン。個室が二つ。 「連邦捜査局のサイコメトラーが何人も動員されたんだが、誰も確証が得られなかった。何人か、微 かな痕跡に触れた者もいたが、結局、それが何の痕跡なのかさえ分からず仕舞いさ」  犯行現場は、寝室だという。  リックは靴下の上からカバーを付け、室内を進む。 「とにかく出ないんだ、証拠が。何一つ」  顔を歪めて苦笑いを浮かべ、自嘲するように言うリック。 「前にも言ったな、これ」 「ええ、十五分前に聞きました」  誠司は答えた。リックから手渡されたカバーを、なんとか履き終え、捜査官に続く。  確かに同じ言葉を、リックの口から聞いた覚えがあったが、確実に十五分前であるかどうかはわか らない。  半ば無意識に口を突いて出た、適当な言葉。  その適当な応対で、得体の知れない不安を遠ざけようとしたものだろうか。誠司自身にもよく分ら ない。 「そうか…」  リックと誠司は、一瞬、視線を交わした。  何かを伝えたかったわけではないが、そうせずにはいられなかった。  日射しによる熱は、少しも暖かく感じられなかった。底冷えのするような、不安。  そして、それを振り切るような、リックの力強い声。 「具体的に、どうするんだ。何か触ればいいのか」  実際のところ、誠司にとって、その質問こそ一番返答に困るものだった。 「さあ、どうなんでしょう」  誠司自身も考えてしまう。 「な、なんだって?」  捜査官は、心底から意外そうな声を出した。  それに対して、誠司の答えは簡単だった。 「なにしろ、就活用ですからね」  今度は誠司が苦笑いをする番だった。 「ああ、そうか。そうだったな」  肩をすくめるリック。  ぎこちないその仕草に、誠司は、申し訳なさを強く感じてしまう。 「ええ、すみません」 「謝る必要なんてない。前の、増山のおやっさんに協力したときは、どうだった」 「そうですね……。部屋の中をぐるぐるしていたら、バリッと……」  自分自身でも頼りない表現だとは思ったが、誠司は事実をそのまま伝えた。 「バリッと、ね」  リックは顎を撫でつけながら呟いた。今になって気がついたが、彼の顎には、注意してみないと分 からないくらいの、細かな無精髭が生えていた。  フローリング剥き出しの床が、誠司の靴下越しに足裏から熱を奪っていく。ひんやりとした感覚。 見たところ床には埃一つ落ちていない。  空気清浄機に備え付けられている粉塵除去装置が、正常に働いているようだった。 「家具はみんなそのままのはずだ。オーナーに聞いたところ、まだベッドのマットレスも変えていな いと言っていた」  リックが言う。彼は先ほどから部屋の入口付近を動いていない。  その態度は、誠司とは全く対照的で、鋭い捜査官の目で犯行現場を見極めようとしているかのよう だった。 「なるほど」  誠司は、半ば上の空でリックに答える。そして、左腕に付けたデバイスの起動ボタンを押した。そ のまま、ふらふらと、部屋を行ったり来たりする。  デバイス所持者のなかには、常に起動させている者と、必要な時にだけ起動させる者とがいる。理 由は単純で、日常生活に役立つ能力かそうではないかということだ。  誠司の能力は、日常生活の役には立たない。むしろ、邪魔になる類のものだった。 「うっ」  誠司の手に、微かな振動が伝わった。それはちょうど、ベッドの付近に立ったとき。 「どうした?」  リックが、寝室の奥に入って来た。 「いま、何か……」  誠司は、何かに誘われるようにして、ベッドに手を触れた。  脚の低いベッド。いや、正確には、そこに敷かれたマットレスだ。 「うぅ……」  緊張のあまり、誠司の口からうめき声がもれる。  汗が噴き出す。  全身がねっとりとした何かに包まれたような感覚が、誠司を絡め取っていく。  その振動は、極めて微かなものだった。  ただ、それは体の芯にまで響き渡り、骨の髄を揺るがすかのように思えるものだ。もっと言えば、 脊椎を震わせ、脳髄にさえ突き刺さるような、微細で鋭い振動。  それは誠司にとって不快な感覚だった。  しかし、その不快さゆえに、彼は確信を持った。これこそが手掛かりだ、と。  床に膝をつき、力を込めてマットレスの端を握る。  急に目の前が暗くなった。  そして、奇妙なことに誠司は、自分が仰向けに横たわっているかのように感じた。  変化はそれだけではない。  自分の体の上に、毛布の感覚がある。  胸元から足元までを覆う毛布。暖かく、安心感を与えてくれる。  ふと、何かが聞こえた。  からから、という微かな音。  それが窓が開く音だと気がついた瞬間、誠司は戦慄した。  誰かがいる。  ベッドのそばに、誰かが立っている。その誰かは、音もなく近付き、安らかに呼吸する誠司の口元 に、何かを当てた。  布だ。  薬品を染み込ませた布だ。  その薬品の感覚さえも、誠司の意識の中に流れ込んでくる。徐々に奪われていく肉体の感覚。穏や かになる呼吸。そして弱まっていく鼓動。しかし、呼吸も鼓動も、止まりはしない。  薬品は麻痺剤か何かのようだ。身体の感覚が鈍くなり、近くにいるはずの<誰か>の存在も遠くに 感じてしまう。  それからの<誰か>の行動は、素早かった。  椅子を用意し、誠司の体を持ち上げ、座らせる。背もたれに縛り付けられる。  ああ、同じだ、あの写真と。  そう思った誠司の頭に、ひんやりとした感覚が押しあてられ、一気に引き下ろされる。  メスだ。  皮膚が切り裂かれる。  しかし、鼓動が穏やかになっているせいか、出血も少ない。  頭頂骨がこじ開けられる。  ばきり、と音がする。次に側頭骨、最後が後頭骨。  痛みはない。薬品のせいだろうか。  段々と意識が曖昧になって来た。  その時だった。ひと際、強烈な感覚が誠司を襲う。  痛みだ。  いままで感じなかった痛みが、誠司の全身を貫いた。  頭皮を切り裂かれても感じなかった痛み。そして、頭蓋骨を解体されても感じなかった痛みが、誠 司を襲う。  いや、違う。  それは冷たさだ。強烈な冷たさ。  脳髄が凍り、皮膚が凍り、それが痛みとして伝わってくる。 「誠司!」  気がつくと、リックが方を掴んで、ゆさぶっていた。 「どうしたんだ、マットレスを掴んで動かなくなっちまったから、心配したぜ」  誠司は、自分の体が酷く震えていることに気がついた。  激しいものではなかったが、小刻みな、こらえ切れない、不安をあおるような震え。 「感じたんですよ……」 「何を?」  誠司は、一瞬、口をつぐんだ。全身から汗が吹き出している。冷たく不快な汗だ。それに、捜査官 からの質問は、言葉では答えにくい。 「人間は、眠っている時でも、体は起きていますよね」  結局、誠司は自信がないながらも、自分が感じ取ったことを一つひとつ説明していくことにした。 「呼吸したり、心臓が動いたりするってことです」 「ああ、分かるよ。レム睡眠だろ」 「そうです。だから、被害者が眠っていたとしても、体の感覚が受け取った刺激は、全部、伝わって くるんです」  そこまで言った時、リックの顔に理解の表情が浮かんだ。 「なるほど、眠っていても感覚はあるし、音も聞こえているということか。凄いぞ!」  リックは意気軒昂の様子。誠司の肩に置かれた手にも力がこもる。  一方で誠司は、全身を襲う倦怠感をこらえるのに精一杯だった。 「あの男……」  誠司は息を継ぐ。奇妙な興奮と、抑えられない震えが、彼の喉を締め付けている。 「男なのか、ヤツは、やっぱり」 「ええ、男です。あれは女性の信号じゃない」  手を中心として、体全体に残る、しびれのような感覚。  以前、増山刑事の捜査に協力した時にも感じた、誠司のLDZ能力固有の残滓。 「あの男、僕の、あ、いや、被害者の、頭を、切り裂いた……」  やや混乱する頭を振り、能力を使用して感じた幻覚を思い出しながら、誠司は言った。  それに答え、リックは一度だけ頷き、言う。 「ヤツは、髄膜ごと脳を持ち去っている。ただ、検視医が言うには外科手術の腕は、決して高くはな いらしい」 「そうなんですか?」 「ああ。……、ヤツは頭皮に鋭利な刃物で切れ目を入れ、乱暴に引き剥がしている。そのせいで、被 害者は顔の皮まで剥がされてしまった」  誠司の首筋を、ぞくりと悪寒が駆けのぼる。  あの、現実ではない、幻の中での感覚を思い出したのだ。 「その後、頭頂骨をむりやりにこじ開けて、脳を取り出す。解剖学に関しては素人同然だろうという のが、医者の意見だ」  誠司は室内を慎重に見渡した。リックの説明は、誠司が体験したものとほぼ同じだった。と、いう ことは、誠司は、まさに犯行の様子を追体験したことになる。  LDZ能力を通じて。  ぴりぴりとした感覚が、誠司の皮膚の上をただよっている。それは、何かの電気信号のようでもあ った。  犯人につながる電気信号だ。  あの男は、窓から入って来た。では、その前はどこにいたのか。  掴みかけた感覚を手放さないように、誠司は意識を集中させる。  すっと、誠司の脳裏に閃くものがあった。 「上の部屋です。彼はそこにいた」 (3) パーリング・ジョン 「ここだ。犯行現場の真上、五〇八号室」  急ぎ管理人に連絡を取り、一つ上の階である五階へと駆け上った誠司とリック。  リックは、部屋の電子ロック装置に解除キーを打ち込み、扉を大きく開く。靴を捨てるように脱ぐ と、カバーも付けずに室内に飛び込んだ。 「彼はここにいたんですよ。そして、窓から降りたんだ」  誠司は、一目散に個室の一つへと入ると、窓に走り寄り、開け放つ。  真下には四〇八号室の寝室部分。 「しかし、窓の外には、何の痕跡もなかったんだぞ」 「凍らせていたんですよ。水を使って、分厚い氷を作って、その上を歩いたんです。溶けてしまえば ただの水ですし、あの部屋は除湿機や粉塵除去装置があった」 「そ、そうか、しまった、ヤツは凍らせる能力者なのか!」  リックは、携帯端末を素早く操作した。  うっすらと見えるディスプレイ上の映像から、事件の捜査ファイルを参照しているようだと推察す ることができた。 「管理人が言うには、この階から上は短期宿泊者用のスペースらしい。下は長期滞在者や、賃貸契約 者用なんだそうだ」  事件の一週間前から、この部屋はある不動産業の男性が借りていた。この男性は、身元が保証され ており、現在はいかなる捜査の対象にもなっていない。  その男性は、事件当日、取引があるために隣の市にあるビジネスホテルに一泊。しかし、相手の都 合で、急に仕事がキャンセルになったため、このアパートメントに帰って来た。そして、事件の捜査 に遭遇したのだ。 「不動産業者は、事件当時にアリバイがあり、聴取しただけ。彼が不在の間にパーリング・ジョンが 部屋に侵入して犯行を行なったわけだな……」  件の業者は、事件の一週間後まで滞在。この男性自身への疑いが何もない以上、この部屋、五〇八 号室を操作する理由もなく、今日まで見過ごされてきたのだ。 「くそ、やられた……」  リックが、ばりばりと音が出そうなほどに頭をかきむしった。  もともと猛獣的というか、獅子のような風貌であったために、一層、野性味が増す。 「脳髄は凍らせて持ちだしたんです。だから、血液も髄液も、ほとんど漏れない」  誠司は、全身に漂う、電気のような、びりびりとした感覚に意識を集中させながら言う。  被害者の髄膜ごと、素手で持ち去った犯人の意識も、誠司のLDZ能力は捉え始めていた。 「奴の目的はなんだ。臓器売買だとしても、凍らせてしまったら、使い物にならなくなるぞ」  リックが言った。  捜査官の本能だろうか、自分たちが出し抜かれたことよりも、犯人の動機に関心があるようだ。  人体の冷凍保存は、少なからず実施されている。しかし、それはあくまでも死者に限られてのこと である。  現代の医療技術では治療困難な病気や怪我がもとで死んだ人物の遺体を凍らせて保存。技術の進歩 によって治療や蘇生が可能になった頃、解凍するというのが、その目的である。  ただし、この方法には根本的な問題点が存在する。  人体を凍らせてしまうと、体内の水分が膨張し、細胞膜を崩壊させてしまうのである。たとえ死者 蘇生が、技術的に可能になったとしても、凍らされて細胞が粉々になった遺体を蘇生できる保証はな い。  二〇五〇年現在、まだ、細胞を壊さずに人体を冷凍する技術は確立されていない。 「詳しいことはわかりません。でも、彼は確かに、一旦この部屋に臓器を持ちこみ、外へ出て行って います」 「何か、物的な証拠はないのか。なんでもいい」  リックは髪を振り乱しながら、辺りを見回した。今にも、その場に這いつくばって嗅ぎまわるので はないかと思うほどだ。 「たぶん、これが証拠になるでしょう」  誠司は、床を指さした。  その部屋の床にはカーペットが敷かれていたが、テラスへと通じる窓のサッシに接する部分が、わ ずかに変色している。 「これは?」  リックは、ジャケットの内側から、携帯端末を取り出す。続けて腰のベルトに付けられたケースか ら小型の折り畳みナイフを出して、カーペットをわずかに切り取った。  小さな繊維と化したカーペットを、端末に乗せると、リックは、その端末の側面ある、いくつかの ボタンを操作する。 「それは、特別な端末なんですか?」  誠司が身を乗り出して言った。 「こいつは、分析用端末だ。鑑識のような精密な分析はできないが、データの採集くらいなら可能な んだ」  慣れた手つきで、端末を操作するリック。  誠司は、それを見守ることしかできない。  耳の奥で、どくどく、と血液が流れる音がする。  肌には、相変わらず、微かな電流がまとわりついているような感覚。  不安と不快感が入り混じり、誠司は、所かまわず喚き散らしたくなるほどの、強い緊張を感じてい た。 「こいつは……、血液だな。血液型はB。被害者と同じだ」  リックの声は、今日、誠司が聞いた中でも一番の真剣味を帯びていた。  微かに震えてさえいる。 「ラボに送って、DNA鑑定をさせよう」  それからの三時間は、酷くゆっくりと流れた。  静寂の中、ふと、誠司の脳裏に、ある光景が浮かぶ。  リックが大学で見せてくれた写真に映っていた、犯行現場だった。  椅子に縛り付けられた被害者。  めくりあげられた頭皮。  大きく口を開いた頭蓋。 「大丈夫か?」  リックの声が、誠司を現実に戻す。 「ええ、まあ」  いつもと同じ、曖昧な言葉が、口から出ていく。  しかし、今回は、いつも通りではいられなかった。 「思い出したんです、あの写真」  誠司の心を支配しているのは、リックの手によって見せられた、あの写真。 「今なら分かる。あの写真が、現実のものだってことが……」  写真を見ただけでは分からなかった。  現実感がなかったからだ。  凄惨な犯行の様子を、被害者の記憶と、犯人の記憶の一部によって追体験をした。 「そうか、嫌な思いをさせてしまったな」  リックはそういうと、体の向きを誠司のいる方へと変えた。 「俺は、連邦捜査局に入って、三年になる。ちょうど、同じ頃にジョンが犯行を開始した」  背を丸め、膝に肘を突く形で話すリック。  誠司は何も答えず、聞くことにした。 「俺の所属している班は、最初、通常の連続殺人犯と同じ方法で捜査を開始した。しかし、やつの足 取りは全く掴めない。被害者の家族には、何も報告できない」  深いため息がもれた。  堂々とした体躯の持ち主、力強く勇敢な男。そう思っていた捜査官が、肩を落として苦しんでいる 様子に、誠司も胸の痛みを感じていた。 「辛いよ。こういうのが、一番こたえる……」  誠司は、リックの顔を見ることができなかった。  この捜査官と出会ってから、ほんの数時間。  しかし、この時間は濃密で、これまでに感じたことのない感情を誠司の心の中に植え付けていた。  もう一つ、誠司にとって、今までとは違う感情の源になるものがあった。  床に残された足跡だ。  それは確かに、この凶悪な事件を起こした犯人の足跡だった。  色も形もなく、無味無臭。おそらく、通常の人間の感覚では、絶対に感知できないであろう痕跡。  しかし、誠司には、それを感じる手段があった。  サイコメトリー。  他者の記憶や意識を、手を通して感じる能力。  誠司が感じた、犯人の痕跡は、叫び声を上げていた。  ここにいる、と。  殺人者は実在する、と。  そして、それはまた、犯人の哄笑でもあった。  誰も俺を止められはしない、と、その男は笑っている。  誠司は、直立不動のまま、背筋が凍るような恐怖を感じていた。        L.D.Z A 了          B に続く


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