琥珀・砂浜



 青い空、白い雲、照りつける太陽。その日差しを受けて輝く砂浜。濃い青空を反射して、透けて抜 けていってしまいそうに澄み渡った海は、ただその色だけで心を浮き立たせるかのようだった。  気温は高いが、湿度が低いせいか、または海風が不快な湿気を振り払ってくれているのか、定かで はないが、とにかく蒸し暑さは感じない。  レンタルのビーチパラソルが作り出した日陰は、全く文句のつけようがないほど快適だ。  ぼんやりとしながら、きらめく海を見て、涼しい風に吹かれて座る。  これぞ、最高の休日の過ごし方だといえよう。 「こら、松川久司」  突然、名前を呼ばれる。  目を声の方へ向けると、すぐそばにセパレートの真っ赤な水着を身につけた女性が立っていた。 「自分から誘っておいて相手をほったらかしにするなんて、ホストとして失格なんじゃないかね?」  上体をかがめ、腰に両手を当てて、一気にまくし立てたのは、美上玲香。  起伏の激しい身体を包む、赤色の水着が人目を引かずにはいないだろう。しかし、彼女の魅力は、 均整のとれた外見ばかりではない。活発さが体のあちこちから吹き出しているかのような印象さえ感 じる。  エネルギーがあるとでもいうのか。  今も、数人の若い男が、こちらを見ている。  まあ、単に玲香の声に驚いて、何事があったのか、と見ているだけかもしれないが。  それは玲香には言わないでおこう。 「いや、しかしですね、到着するなり服を脱ぎ捨てて、荷物もパラソルも放ったまま、海に突撃して 行った方が相手なわけでして、そうなるとここで呆然とするしかないような気がするのですが、いか がか?」  一応は丁寧な物言いを心がける。  曲がりなりにもホストなわけだし。  この場合のホストとは、もてなし役という意味で、決してホストクラブ店員という意味ではない。 念のため。  玲香は、自分の行動が性急すぎたという自覚があるためか、口をとがらせて言う。 「だって、今年最初の海だよ。まず飛び込んで行かないと失礼でしょう。それに、荷物ったって、ほ とんど車の中だし、ここにあるのは服とビニールシートくらい。こんな田舎の、地元民限定の、ビッ ミョウな海水浴場で置き引きも何もないでしょうが」  確かに、彼女の言ももっともである。  車はロックをかけてあるし、念のためにキーは海の家のロッカーに預けてある。このロッカーは暗 証番号式だから、鍵を入れたロッカーの鍵をなくす、というコントじみたオチはつかない。  ここが田舎であるというのも本当で、荷物を置きっぱなしにしておくと近所のおじいさんが見張り に立って待っていてくれるという事例が、年に二、三回は話題になる。  さらに、今、俺たちがいる海水浴場は、山を分け行った先にあり、交通の便も悪く、海の家も一軒 しかない寂れようである。なおかつ、近所にリゾートビーチ風の大きな海水浴場があるため、客とい えるのは本当に微々たる人数しかいないのだ。今日も、近所の子供や釣り人がちらほらと見えるくら い。 「まあ、それはそうなんだが、服やパラソルはいいとして、弁当はな。人間が持って行かなくても、 野生動物は侮れないぞ」  俺は脇に置いてあったバスケットを、ぽんと叩き言った。 「う、それは、確かに・・・・・・」  それまでの勢いを失い、少しだけ萎れる玲香。  実際、山の麓にあるこの海水浴場は、浜辺のすぐそばまで森がつきだしている。食べ物を放置して おくと、狸やらイタチやらがうばいにやってくるのだ。 「じゃあ、どうすんのよ。ずっとそうしているつもり?」  玲香は、俺を正面から見据え、言う。  少し色素の薄い、琥珀色の瞳が、背後からの陽光に陰を作り、濃い色を見せている。  それは、なんとなく焦燥感を抱かせる色で、俺は目をそらし、何気ない風を装って砂浜を見る。 「まあ、動物を警戒して、最初から鍵のかかる丈夫なバスケットをチョイスしていたわけ、いた!」  最後まで言い終わらないうちに、おちょくられていたことに気づいた玲香の、強烈なローキックが 飛んできた。  さすがにキックボクシングのジムに通っていただけあって、すごく痛い。  その後は、特に何事もなかった。  よくある、海の一風景。  ひたすら遠泳に挑む玲香と、それを追い、途中で力つきる俺。  どこからともなくナマコを拾ってきては投げつけてくる玲香と、それに直撃されて体中に赤い斑点 ができた俺。  ・・・・・・。  あまり一般的ではないかな。  そんなこんなで疲弊し切った俺たちが、昼食休憩を取ったのは、もう午後も遅い時間だった。 「ずいぶん大きな入れ物だと思っていたけど、まさかお弁当と同量の保冷剤が入っていたとはね」  サンドウィッチを口に運びながら、玲香が言った。  その言葉の通り、弁当を入れたバスケットの中には保温シートとそれに包まれた冷凍式の保冷剤。 そしてその隙間を埋めるようにサンドウィッチが詰め込まれていた。  ちなみに、このサンドウィッチは俺の手作りだ。近所の肉屋から分けてもらった特製ベーコンをた っぷり使ったベーコンレタスサンド。  自分で言うのもなんだが、ハニーマスタードがいい感じに仕上がっている。 「正直、ちょっと冷やしすぎたかな、と思ってる」  俺は、水筒から紅茶を紙コップに注ぎ、玲香に渡した。 「まあ、美味しいから、いいわ」  もごもごと口を動かし、かなり速いペースで食べる玲香。昔からよく食べる女だった。これですら りとした体型が維持できているのだから、不思議である。  これまで、いや、成人してからこれまで、と言った方がいいのだが、こいつと二人きりで出かけた ことは、ほとんどない。いつも悪友達が一緒だった。  今日は、ダメ元で誘ってみたが、「弁当はそっち持ち」という条件であっさりオーケーが出た。若 干、拍子抜けだった。  ここ最近の玲香の状況を考えると、こういった遊びには出てこないと思っていた。  男と二人の遊びには。  そう思ったとき、不意に、俺はこいつにとって、男としては考えられないのではないか、という疑 問が頭をよぎった。  気がつけば、日が山に消えかかっている。  何やら他愛のない会話をしているうちに、夕方になっていたようだ。夕日を受け、朱色になった海 を、二人、何気なく眺める。  こういうときには、俺の悪い癖が出る。  わかっているのに止められない。  言わなくてもいいことを言ってしまう。 「八島のことは、もういいのか?」  かすかに声がかすれているのを自覚する。  横目に見ると、玲香は海から目を離していない。 「もういいって、何が?」  もう答えた彼女の声は、今日一日の中で、最も硬いものだったと思う。 「別れたこと、気にしてないのか、と思ってさ」  やめておけばいいのに、俺って奴は、踏み込まなくてもいいところに踏み込んでしまう。  先ほどの疑問が、俺の口を動かしているようにも思う。  こいつは、俺をどう思っているのか。 「いつの話よ」  ふん、と鼻で笑いながら、玲香が言う。  その顔を見たかったが、どうしても、自分の目を上げることができない。とりあえず、海を眺める ふりをする。 「去年の、今頃?」  実際は、別れた、なんて単純なものじゃなかった。  そう、ちょうど去年の今頃の話だ。  俺たち、悪友グループに激震が走った。  小学校に通っている時分から、付き合いがあった、俺、玲香、俵坂、木島に、大学に入ってから加 わった、八島、川籐、小杉、吉川。この八人のグループ。もうそれぞれが大人になりかかっていた時 期。何かのきっかけがあれば、すぐにそういうふうになるだろうとは、頭のどこかでわかってはいた が、実感なんてなかった。  だから、驚いた。  玲香と八島が婚約したのだ。  あまりに突然のことだったので、俺は何が何やらわからず、おめでとうとか何とか、もごもごと言 ったような気がするが、それ以上のことはできなかった。  まあ、少なくとも、その時は二人とも幸せそうだった。本当に。  しかし、これが思わぬ事態に発展した。  何と、八島には高校生の頃から付き合っている彼女がいて、玲香と婚約した後も、変わらぬ「お付 き合い」を続けていたというのだ。  それだけではない。  八島の「彼女」は、三人いたのだ。  全く、その後が本当に酷かった。  幼い頃から玲香のことを妹と同列に思っていた、実際に妹がいる、俵坂と木島が激怒し、八島に殴 りかかった。止めようとした俺が殴られた。  もともと八島と親交があった川籐、小杉、吉川も、さすがにこれには呆れてしまったようで、それ ぞれ、「ありえねぇ」、「ふざけんな」、「最低」との言葉を投げ付け、絶交。中でも、特に極端な 反応を見せたのは、玲香と同じく女の吉川だった。  往復ビンタというのを、初めて見た。凄かった。  当事者の玲香は、それから情緒不安定になり、始終、吉川と行動するようになった。  詳しくは聞かなかったが、吉川がこっそりと教えてくれたところによると、玲香は吉川の部屋に泊 まっていたらしい。  すでに式の日取りと場所も仮決めしてあり、お互いの家に挨拶にも行っていたという。相当のショ ックだったに違いない。  俺の頭の中では、いつも少年のような、活発な姿しかない玲香が、恋人の裏切りによって自分を見 失った。そのことは、俺にとっても、大きなショックだった。  吉川に聞いたところによると、玲香は人一倍、女らしさに憧れていたのだという。  俺たちは、小さい頃から、男勝りの玲香の姿しか見ていなかったために、そういった、繊細な彼女 の内面には、まるで気が付かなかった。  けれど、この一件で、否が応にも気付かせられた。  ああ、こいつも女だったんだ、と。  その後、八島を省いた俺たちは、玲香のために時間を使った。  それまで以上にグループで過ごす時間を増やし、とにかく、楽しくしようと努めた。  これがうまく行ったのかどうかは分からない。  ようやく、玲香が以前のように大きな声で笑うようになったのは、年が明けて、桜が散る頃になっ てからだった。  そして、今日。 「もういいわよ、あんなやつ。そりゃさ、気にはなるけどね。今でも、思い出すと殴りたく・・・いや、 いいんだけど」  何か凄く物騒な言葉を聞いた気がするが、それには言及せず、玲香の言葉を待つ。 「私もさ、悪い部分はあった。浅はかだった。恋に恋してたっていうかさ。今まで、私の周りにはい ないタイプの男だったから、ホイホイと流されて、先走って・・・」  玲香が泣くんじゃないかと思った。  去年の冬くらいには、目が充血していない日はなかった。俺は、今になって八島の話を持ち出した 自分を呪いたくなった。しかし、俺の幼なじみの声には、湿った響きは生まれなかった。 「それに、腹の立つあいつと、吉川ちゃんのおかげで、今まで気付かなかったことにも気付けたし。 プラスかマイナスかで言ったら、プラスがちょっと上かな。今となってはね」  意外な言葉だった。  俺は、今度こそ玲香の顔を見た。  玲香は、真っ直ぐに俺を見ていた。  その琥珀色の瞳は、海に反射した夕日を受けて、一層、色を輝かせている。 「気付いたことって何だ?」  俺の言葉に、玲香は、常になく柔らかな表情を作り、答えた。 「自分が、本当は何を大事にしていたのかってことかな。昔からそばにいて私を守っていてくれた。 <それ>のことを、大切に思っていたんだよ、自分では気付かなかったけどね」  目を逸らさず、俺を見つめ、静かな声で言う玲香。  こころなしか、顔が赤いようにも見えるが、夕日がさらに傾いたせいかもしれない。 「そうか・・・」  曖昧に、絞り出すように、俺は言った。  なんだか、今の玲香には、ちょっと言葉では言い表せない迫力があった。  飲み込まれるような、ある種、恐ろしいものでもあるような感覚。しかし、一方で、深い海のよう に何もかもを包み込んでしまうような、言いしれない雰囲気。 「そうか、って、あっさりしてるのね、相変わらず。一大決心の末の告白だったのに」  そう言って、玲香は口をとがらせ、そっぽを向いてしまう。 「え、何が?」  俺は、本当に訳が分からず、言った。  次の瞬間、玲香は、それはそれは凄い形相で俺をにらんだ。そして、すぐに脱力し、言った。 「まあ、分かんないか。ごめん、自分でも今のは曖昧な発言だったと思う。・・・・・・、まあ、要はね、 いくら昔からの親友でも、この歳になれば、好きでもない奴と二人っきりで海になんか来ないよ、っ て話」 「・・・・・・」 「さすがに分かったかな〜。・・・・・・、さて、花火しようか。持ってきたんでしょ」 「ああ、車の中」 「今日は、あんたの部屋に泊まるから」 「ああ、そう」 「ちょっと、意味分かってる? 今、すっごく恥ずかしいこと言ったんだけど」 「うん、まあね」 「・・・・・・、そう。まあ、いいけどね」 「なあ、玲香」 「何よ?」 「俺さ、実は海が怖いんだ」 「え、嘘?」 「でもさ、泳ぐのは好きだったんだ」 「・・・・・・」 「おまえと一緒に泳ぐから、海も平気だった」 「ふぅん、そう」  玲香は、その後、驚くくらいにはしゃいでいた。俺も、たぶん、はしゃいでいたと思う。     <琥珀・砂浜>  了


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