永遠のコルヌコピア



(1)温泉サプライズ 「慶一君、早く早く」  つぐみの、高すぎもせず低くもない、快活な声が階段を通じて聞こえてくる。 「ああ、今行くよ」  扉を開いて返事をした大鷹慶一は、そのまま自室のパソコンデスクの前に立った。  デスクのすぐ隣に、一段低くなっているキャビネットがある。その上には、木製の小物入れが置か れていた。蓋を開くと、小物入れの中は、いくつかの小部屋に分けられており、それぞれに、キーケ ース、財布、腕時計三本、免許証、そして、黒曜石のペンダントが入れられている。  外出する際に持ち出すものを、一か所に集めて保管しているのだ。  慶一は、小物入れの中から腕時計を一本選ぶ。ウレタン樹脂のバンドが取り付けられたスポーツタ イプ。そして、他のものを全て身に付けると、階下で待つ恋人、相原つぐみのもとへと向かった。  大鷹家は、外観こそ純和風だが、それは慶一の両親の趣味であり、実際は現代技術の恩恵を十分に 活用する建築物となっている。  電動式シャッターを開けると、自動で照明が灯るガレージ。その中には、三台の自動車が駐車して ある。一台は父親のもの、二代目は母親のもの。そして三台目は、慶一が使用許可を得ているもの、 である。  まだ学生である慶一は、自分自身の自動車を所有していない。その理由は、分かり切っていて、自 動車を買うような金銭的な余裕がないからだった。今の慶一の収入源と言えば、アルバイト以外には なく、その金額もたかが知れている。結果、自動車など買えない。しかし、使わなければいけない場 合もある。となれば、借りるしかない。  数年前に兄が就職して、一人暮らしを始め、自分で新車を購入した。それまで乗っていた自動車を 父親名義に変えてもらい、慶一が使える車ということにしたのだった。 「さてさて、温泉なんて久しぶり。楽しみだなぁ」  助手席に乗ったつぐみが言う。  この車は、決して新しいとは言えない。正直に言って、古臭い。しかし、名義変更の際、販売店を 経営する父親の知り合いが気を使ってくれ、内装のクリーニングをしてくれていた。内側だけは、新 品同様だ。  つぐみが車に拘らない性格でよかった。  慶一の心配は、その一点だった。 「その温泉のことだけど、住所は間違いないのか? ナビで出てこないんだけど」  キーを差し込み、始動準備をする慶一。 「だいじょーぶ、道は覚えてるから」  気楽そうに答えるつぐみ。その表情は朗らかで、これからの旅路を心の底から楽しみにしてくれて いることがうかがえる。 「ああ、そう。なら、いいか」  そう言うと慶一は、ぐい、とキーを回し、車を発進させた。目的地となるのは、車で二時間ほど走 った山間部にある温泉宿。  つぐみが言うには、隠れた名湯というような場所らしい。  道中は特に何の問題もなかった。  あっさりと到着した先の温泉宿は、重厚な木造建築。大きな門に、檜の一枚板で作られた看板がか けられている。  囲炉裏庵。  それが宿の名前のようだ。  舗装されていず、砂利を敷き詰めただけの簡素で広い空間に車を止め、温泉地に降り立つ慶一と、 つぐみ。 「いやぁ、雰囲気のある宿だなぁ」 「でっしょぉ、お気に入りなんだよ」  すでにはしゃぎ始めているつぐみを見ると、自然にほほが緩んでいく。慶一は、最近、頻繁に自分 の表情が緩んでいることを自覚していた。  その瞬間、慶一の背筋に冷たいものが走る。  背後を振り返ると、そこには一台の側車付きオートバイ。  それ自体は不自然なものではない。一般によく見かける大型バイクである。また、今日は晴天のた め、二輪車で温泉地にやって来る客もいることだろう。  決して、不自然ではない。  オートバイだけは。  慶一が気になるのは、そのオートバイにまたがる、巨漢と、サイドカーに座り、足を投げ出してい る少女についてだった。  巨体の男は、見たところ白人の男性。筋骨隆々の体躯に、短く刈り込まれた金髪と強健そうな顎。 顔の半分を覆うほどに大振りのサングラス。フルフェイスタイプのヘルメットを燃料タンクの上に置 き、その上で両手を組んでいる。  サイドカーの少女は、フードの無いジェットタイプのヘルメットをかぶり、黒いグラスのはまった ゴーグルを着けたままにしている。男と同じ金髪は、長く伸ばしているようだが、実際の長さは分か らない。もごもごと口が動いているのは、ガムか何かを噛んでいるからだろう。  二人は、作りのよく似たライダースーツとブーツを身にまとっていた。 「つ、つぐみ……」  慶一は、オートバイを横目に見ながら言った。 「うん、どうしたの?」  つぐみは、慶一の態度をいぶかしく思ったか、小首をかしげながら言った。 「な、なんか、あの二人に睨まれてるような気がするんだけど?」  小声になって慶一が言うと、つぐみはつま先立ちになり、彼の肩越しにオートバイを見る。 「そうかな、見ているかもしれないけど、睨んではいないと思うよ」  恋人と同じように小声になって、しかし、なにか面白いものでも発見したかのように、笑いをこら えながら言うつぐみ。 「むむ……」  どこか納得がいかないが、考えてみれば、オートバイの二人は、どちらもサングラス(一名は、そ のようなもの)をかけているのだし、視線の先が自分であるかどうかは分からない。 「まあ、いいか。外国人さんみたいだし、日本人が珍しいのかもしれないしな」  と、自分を納得させる慶一。  つぐみに腕を取られ、もう片方の腕には荷物を抱えた状態で、宿の中へ。 「こんにち、わ……」  引き戸を開けて、玄関に入ったところで、さわやかに挨拶をした、と思った次の瞬間。慶一は思わ ず荷物を取り落としていた。 「やあ、相棒。待っていたよ」  宿の玄関から入った先、ホールにあたる場所で、慶一とつぐみを待ち受けていたのは、あろうこと か、冥界の主。  こけたほほ、暗灰色の髪は長く、背中まで垂れている。ダークグレイのスリーピースに長身を包み 込み、両手を広げて客を迎える姿は、文句なく紳士そのものである。 「ハ、ハデスさん……」  慶一は、一気に脱力して行くのを感じた。 「お父さん、久しぶり」 「ああ、我が娘よ、元気そうで何よりだ。しっかりと任務も果たしてくれたようだね」  靴を脱ぐなり、離れて暮らしている父親に駆け寄るつぐみ。親愛のハグも忘れない。  その様は、欧米の一般的な家族を思わせる。 「任務?」 「そそ、今日、ここに慶一君を連れて来て欲しい、ってお父さんに頼まれて」 「な、なんだって……」  嬉しそうに言うつぐみ。しかし、その発言に慶一は衝撃を受ける。  全てが計略だったというのか。  今日、この日の、ここまでの喜びが、全て陰謀による演出だったというだろうか……。 「気を悪くしないでくれたまえ、我が英雄。君が冥界を出て以来、もう半年。本当はもっと頻繁に会 い、語り合いたかったのだが、すまない、私も忙しくてね」  心底からの言葉なのであろう、ハデスの表情は暗い。  その顔を見て、慶一は考えを改めざるを得なかった。 「いえ、俺の方こそすみません、つぐみを通じて、連絡を取ることもできたのに……」  うつむく慶一。そしてハデス。  二人の間に、友への不義理、という言葉が、重苦しくのしかかる。  その雰囲気を打ち破ったのは、天真爛漫少女、つぐみであった。 「まあまあ、二人とも、そんな暗い顔しないで。今日、会えたんだからいいじゃない」  つぐみは、男二人の腕を、右と左に取りあい、まさに懸け橋となった。 「うむ、そうだね。我が娘は良い事を言う。慶一君、ここは私の親族が経営している宿でね。きっと 気に入ってくれると思うよ」  そう言うと、ハデスは慶一を促して、奥へ進む。  宿のホールを抜けた先には、大きな広間があった。  天井はなく、一抱え以上はありそうな巨大な梁と、同じくらいに太い柱によって支えられた屋根が 丸見えになっている。  日本家屋の歴史的な建築方法であった。  広間の中央には、やや大ぶりの囲炉裏。  その縁に、一人の小柄な女性が座っている。  長い髪は金髪。色白の顔は輪郭がすっきりとしており、ほほが若干、薔薇色を帯びている。手も足 もすらりとした、西洋人の体系だが、着衣は和服。単衣である。  藁を編んで作られた座布団に正座をしている姿は、宿の女将として、全く過不足のない、悠々とし たものだった。 「やあやあ、どうも。初めまして、私はヘスティア。こうして囲炉裏を守るのが仕事の、暢気な女神 さまだよ」  朗らかに笑いながら、床に手をつき、ちょっと首をかしげて挨拶をする。 「あ、初めまして、大鷹慶一です。……、って、ヘスティア!?」  ヘスティアといえば、オリンポス十二神の一柱、炉を司る家庭の守り神だ。加えて、冥界の王ハデ スの姉にあたるともいわれている。 「はっはっは、まあ、あまり固くならないで。君のことはハデスから聞いているよ。今日は来てくれ てありがとう。ぜひゆっくりしていって欲しい」  そういうと、ヘスティアは囲炉裏の炭火を調節し始める。  はあ、と気の抜けた返事をして、それ以上はどうしたらいいのか分からず、ハデスの方を見てしま う慶一。  それに答えるように、冥界の王は微笑み、言う。 「よし、顔合わせも済んだところで、早速温泉に入ろうじゃないか。日本式の裸の付き合いというや つさ」  慶一の肩に腕を回し、揚々と歩き始めるハデス。  その背中に、姉の声がかかる。 「ああ、夕食は奮発するよ、ハデス。お客様のためだからね」  お客と言うのは自分のことだろうか……、と恐縮する慶一。  それを知ってか知らずか、ハデスは陽気そのもので、 「よろしく頼みますよ、姉さん」  と、屈託がない。  その後、ハデスに案内されて、脱衣所へ。  洗い場でなんとか身体を洗い、岩が積まれた温泉へと入る。  そこにはすでに先客がいた。 「あ、どうも、失礼します」  反射的に頭を下げる慶一だったが、見れば相手は銀髪に銀色の髭を蓄えた壮年の男性と、似たよう な年齢の茶髪の男性であった。  双方ともに筋骨たくましく、乳白色の湯から露出している肩や胸は、およそ日本人とは離れた厚み と大きさを持っていた。 「はっはっは、よいよい。風呂は無礼講じゃ」  銀髪の男が言う。 「ほう、これが兄者の英雄か」  これは茶髪の男性である。 「そう、大鷹慶一君だ。最近にしては珍しく、半神ではない英雄なんだ。よろしくしてくれよ」  にこやかに言うハデスだったが、その隣で湯につかった慶一は、自分の耳を疑って、一切の行動を 止めてしまう。  確認するのは怖かったが、この際、確認しないわけにはいかない。  意を決して、口を開く。 「あ、あのぅ、ハデスさんのご兄弟、ですか……?」  囲炉裏端に引き続き、身のすくむような展開に震えあがる慶一。 「ああ、改めて紹介するよ。こちらがゼウス、そして向こうにいるのがポセイドンだ」 「ひいいい……」  お湯につかって間もないはずなのに、目まいがしてしまう。  幸か不幸か、その後、何があったのかはよく覚えていない。  ハデスに背中を流してもらい、ふらつく足で浴場を出て、浴衣に着替えたあたりは、なんとなく覚 えている。  しかし、結局のところ、慶一が意識を明確にしたのは、囲炉裏端に座り、つぐみに声をかけられた 時だった。 「大丈夫、慶一君?」  心配そうな表情で覗きこんでくるつぐみ。  短く切りそろえられた髪がぬれているのは、つぐみ自身、温泉から上がったばかりだからか。  ふわりと漂う、シトラスの香り。それは、つぐみが愛用しているシャンプーのものだ。  慶一は、最近、嗅ぎ慣れつつある香りが、自分を現実に引き戻したのだと気付く。 「ああ、何ともない。ちょっと、のぼせただけだよ」  視線を落とすと、膝の近くには膳が置かれており、その上には、茶碗に盛られて輝く白米と、塗り 箸。幾つかの空の皿。目を前方に転じれば、囲炉裏にかけられた鉄鍋と、炭火の周りを囲むように配 置された、竹に刺さった大振りの川魚。  日本人でさえ、滅多に見る機会のない風景と言っていいだろう。  所狭しと並んだ魚は、直火にあぶられて、香ばしい匂いを立てている。  少し落ち着いた心持がした慶一は、そのまま、周囲を観察する。  自分の右隣りには、つぐみ。左隣にハデス。ちょうど向かい側には、慶一と同じく浴衣に身を包ん だゼウスとポセイドン。  少し離れてヘスティア。その隣には、二つの主のいない座布団がある。  あと二人、席があるということだろうか。  慶一は、全く現実感のない光景に、幾度目か分からない目まいを覚える。  と、そこへ、どすどすと足音も高く歩いてくる者があった。 「あ、あの二人は……」  慶一の目に映ったのは、宿に入る直前、オートバイに乗っていた二人組。 「あ〜、腹減ったぁ」  少女が、どかり、と囲炉裏の縁に腰を下ろす。そして、頓着なく、胡坐をかく。  後に続く巨漢は、一泊遅れて少女の隣に座る。こちらは何の音も立てない。 「乗り物はちゃんと片づけたのかい、二人とも」  鍋の様子を見ながら、ヘスティアが言う。  その気軽そうな様子から、この二人も、彼女の血縁であろうことがうかがえる。  と、いうことは、この二人もオリンポスに住むものなのだろうか。  慶一の胸に、忘れかけていた動悸がよみがえる。 「もうばっちりだよ、ヘス伯母さん」  指で輪を作って答える少女。 「うむ」  低い声でうなずく巨躯の男。  この二人は、まだ温泉には入っていないらしく、先に見たとおり、ライダースーツのままだった。 「慶一君、紹介しておこう。こちらの大きな方がアレス。大きくないほうがアテナだ」 「ハデス伯父さん、その大きくない、って言い方が微妙に引っかかるよ。……、っと、お前が大鷹慶 一か。ケルベロスをとっ捕まえたんだってね。人間にしてはやるじゃない」  にやり、と笑う少女。ハデスの言葉を信じるなら、彼女は知恵と勝利の神、アテナ。 「よろしく」  ぼそり、と低い声で言ったのは、巨躯の男。こちらは暴力と闘志を司るアレス。 「は、初めまして……」  もうどうしていいやら分からず、一言、あいさつをするだけしかできない慶一。 「アテナお姉さま、アレス兄さん、お久しぶり」  固まってしまった彼氏の隣で、彼女であるつぐみは、にこやかに手を振っている。  慣れの問題だろうか。  しかし、慶一は、この雰囲気に慣れることなどできそうにない、と思った。  その後、食事は和やかに進んだ。  特に超常的な現象が起こるわけでもなく、一人だけ勝手に緊張している慶一を除けば、和気あいあ いとした家族の食卓であった。 「さて、お酒が良い温度になったよ。慶一君、呑めるんだろう?」  ヘスティアが徳利と御猪口を持ってきてくれた。のみならず、その御猪口を慶一に手渡すと、お酌 の態をとる。  慶一は、正直なところ、酒など注いでもらってもいいものか恐れ多いよ、と一瞬だけ悩んだが、な るようになれ、と意を決し、酌を受け、ぐい、と酒盃をあおる。 「良い飲みっぷりだ、英雄よ」  慶一の一口が引き金となったか、その後は互いに注しつ注されつ。特にゼウスとポセイドンは、御 猪口などでは足りぬとばかり、茶碗に酒を注ぎながら、豪快に呑みほしていた。 「ひとつ、聞いてもいいですか?」  酒がまわり、やや緊張がほぐれてきたため、慶一は、気になっていたことをハデスに聞くことにし た。 「なんで、温泉なんです?」  酒を飲んでさえ、あまり顔色の変らない冥界の主は、慶一の言葉の意味を考えるように、一瞬だけ 動きを止めたものの、すぐに意図を理解したようだ。  慶一は、自分の言葉が足りないことを自覚したが、時はすでに遅い。 「なぜ、我々が日本の温泉宿に集まっているのか、ということだろう?」  さすがにハデス。慶一の疑問をそのものずばりと言い当てていた。  慶一は、この宿の女将がヘスティアであると知った時から疑問に思っていた。  なぜ日本なのか。  湯治場か?  しかし、西洋にもホットスプリングを活用した療養施設がある。わざわざ日本の温泉地に神々の保 養所というわけでもあるまい。  そんな疑問を、ハデスはにこやかに受け止めてくれる。 「温泉は、人間たちの好きなものだろう?」  ハデスの答えは、慶一には少し意外だった。 「ええ、まあ。俺も好きです」  と、言ってみたものの、慶一は、納得できない。  温泉は好きであるが、それがどうしたのだろうか。 「だからだよ」 「は?」 「私たちは、温泉につかって身体を休めるわけじゃない。温泉を人間たちが愛しているから、私たち も力を得られるんだ」  ハデスは御猪口から酒を口に入れる。  慶一はすかさず、酌をする。 「ありがとう。……、私たちはね、人間から愛をもらって活力を得るんだよ」 「愛?」 「そう、愛。信仰心と言い換えてもいい」  するり、と、慶一の手から徳利を抜き取り、ハデスは酌を返す。  そして言った。 「人間たちが愛しているもの、それを私たちも利用することで、より愛をこの身に受け入れやすくす るんだよ」 「愛、って……。神様の力の源って、愛なんですか?」 「そうだよ。だって、みんなそうだろう? 生きとし生けるもの、全ての活力源は、愛さ」  慶一は驚いた。  愛とは、予想外も極まる。  しかもだ、神々が温泉の経営をするのは、その温泉が、人間に愛される対象だからだという。  人間に近い行動を取ることで、より強く人間の愛を受け入れようとしている。  満座の神々は、人を求めていたのだ。  じわり、と、慶一の胸に広がる感情があった。  暖かく、徐々に胸から上へとのぼってくるもの。  それはある種の切なさ。 「ありがとう、我が友。君の愛を感じるよ」  ハデスが低く呟く。  慶一の耳に、その言葉は柔らかな衝撃となって残った。  さて、予想外の事態というものは、それに対して全く備えができていない場合に起こるために、予 想外と呼ばれる。  今日この日、予想外に次ぐ予想外で、感覚が麻痺していた慶一だったが、この後に起こった事は、 予想とか予測とか、そういったものを一切合財、超越している展開だった。 「ああ、アタシの卵焼き!」  甲高い叫び声。  その主は、慶一と囲炉裏を挟んで向かい側に座っていたアテナのもの。  いつの間に出てきたのか、定かではないが、酒が出たあたりから順繰りに、大皿に乗った料理が、 囲炉裏の縁に運ばれてきていた。  煮物、焼き物、漬物などなど。  味も種類も、そして量も、全く申し分のない料理の数々。  その中の一つに、出汁巻き卵があった。  黄金いろに輝いた、美しい卵焼き。奥深い出汁の味には、その場の誰もが舌鼓を打っていた。  不満など出ようはずもない。  誰もがそう思っていたはずだ。  しかし、戦の女神は違ったようだった。 「これから食べようと思っていたのに!」  烈火のごとき怒りが渦を巻く。  たなびく金髪が逆立ち、呼応するように、炭火から火炎が湧きあがる。  射抜くような視線の先には、もぐもぐと口を動かすアレスの姿。そして、空の皿。  どうやらアテナは、卵焼きの最後の一つを、アレスに食べられてしまったようだ。 「表へ出な、アレス!」  アテナの大音声が、大気を振るわせる。  その迫力は、面と向かってはいない慶一さえ泣きたくなるほどだったが、正対するアレスは、微動 だにせず言った。 「望む、ところ」  二人はそのまま宿を飛びだしてしまう。 「面白くなってきたな!」  ゼウスとポセイドンは、互いにうなずき合うと、後を追って出て行った。手に手に徳利を持ってい る。酒盛りをしながら観戦でもしようというのか。 「え、ちょっと、……。ハデスさん、いいんですか!?」  慶一は、思わず、ハデスを見る。 「まあ、いいんじゃないかな。保護者同伴だし……」  当のハデスは、いつもの間にか、手酌で酒を飲んでいる。  気がつかなかったが、よく見れば目が据わっている。酔っているらしい。 「でも、心配よ。念のために見に行ったほうがいいんじゃない?」  つぐみが、慶一の腕に自分の腕をからませながら言う。  突然の騒ぎに、心細くなってしまったようだ。 「うーん、そうかなぁ。まあ、そうか。じゃあ、行こうか」  愛娘の言葉に動かされたか、ハデスはのっそりと立ち上がると外へと向かう。その後を追う慶一と つぐみ。  しかし、宿の外は、もはや戦場だった。  鳴り響く轟音。  閃光。  衝撃。  大量の花火に、一斉に点火した時のような、火薬が燃える臭い。  互いに戦いを司る神々が、その力をぶつけ合い、遠慮も会釈もなく、争っている。  二人は、宿屋の門から、やや遠ざかった場所にある、開けた野原で戦っていた。  まず、慶一の目に入ったのは、アレスの巨体だ。  腰を落とし、両拳を握って、胸の脇に付けている。  力を溜めているのか、その両肩は、不自然なほどに盛り上がり、筋肉が、内側からライダースーツ を押し上げている。 「ああっ!」  慶一は、思わず声を上げた。  なんと、アレスの両肩にバズーカ砲が現れたではないか。 「ふん!」  一呼吸おいて、轟音が響き渡り、二門の砲身から大口径の弾丸が発射される。  アレスの巨躯は、その反動に小揺るぎもしない。  地響きを上げて着弾した砲弾だが、その場にアテナの姿はない。  発射直前から素早く移動した女神は、射線を見切り、被害の無い地点まで走っていたのだ。 「むやみに撃てばいいってもんじゃないんだよ、アレス!」  小柄で華奢な少女にしか見えないが、そこは百戦錬磨の戦女神。瞬くほどの間しか空けずに体勢を 立て直し、反撃を開始した。  少し強く打ちつけただけで折れそうなほどに細い両腕に、なんと、ブローニングM2重機関銃を一 丁ずつ持っている。 「はぁっはっはっはっは!」  高笑いが途中で、爆音に打ち消される。  アテナのその表情は輝き、喜びにあふれている。  しかし、周辺の被害は甚大。  一分間に五百発以上の弾丸を発射すると言われる、近代歩兵用兵器の頂点に君臨する重機関銃であ る。  慶一は背筋に凍りでも放り込まれたかのような戦慄を覚えた。  通常、戦車や装甲車の銃眼に固定して連射するはずの兵器であるが、それを二丁拳銃よろしく、両 腕で振り回すアテナの姿は、凶悪な悪魔のようにさえ見える。しかし、それにまして、畏敬の念がこ み上げてくるのは、その美しさゆえであろうか。  背に輝きをまとって、暴れまわる女神。 「すげぇ」  思わず呟き、慶一は、何気なく、もう一方のアレスを見た。  50口径の弾丸がことごとく命中している。  固定されていてさえ、連射する際には命中率が低下するのが重機関銃の常。だが、そんな常識も神 の前ではささいな事でしかないようだ。  いや、そもそも、この銃を操るのは戦術と戦闘の女神。正確に使いこなせて当然ということか。  アレスも負けてはいない。  暴風の中の雨か霰かというほどに叩きつけられる弾丸にも全く体勢を崩さず、両肩からの砲撃で応 戦する。  その立ち姿は巌のごとく。  服が破れてさえいないのは、神の力ゆえか。  しかし、慶一は思った。 「両方とも、むやみに撃ってる……」  その呟きを聞きつけたか、ハデスが横に並ぶ。 「まあ、アテナとアレスだからね。あの二人は、とにかく戦い好きで、一旦、戦うとなったら見境が なくなるんだよ」  それを聞いて、慶一は一層、不安をかき立てられる。 「それって、危ないんじゃないんですか?」 「まあね。でも、ここはヘスティアの土地。他の人間に被害は出ないさ」  他の人間には。  その言葉が気にかかる。 「あの、それって、俺には被害が出るってことですか?」 「はっはっは」  ハデスの笑いは、控えめに見ても引きつっていた。  慶一は、比較的安全と思われる、宿の中に戻ろうかとも考えたが、なんとなく二人の神々の戦いを 見ていたい気にもなった。 「まったく、あの二人は、いつまでたっても子供なんだから……」  呆れたように言ったのは、家庭円満の女神ヘスティア。 「普段はいい子なんだけどね、戦いになると我を忘れてしまうんだ」  ヘスティアが、自分に対して言っているのだと、一瞬遅れて気がつく慶一。  そしてその瞬間、それまで自分が、ヘスティアに見惚れていたのだということに、始めて気がつい た。 「ふ、二人とも戦いの神ですからね。わかりますよ、なんとなく」 「そうかい? あはははっ」  朗らかな女神の笑い声が慶一の耳に届いた時、ひときわ大きな爆撃音が空気を震わせた。  見ると、宿の奥手にある建物が煙を噴き上げているではないか。  流れ弾が直撃したらしい。 「ああっ!」  その様に、自称暢気な女神、ヘスティアも、色をなして身を乗り出す。  当事者の二人は変わらず暴れまわり、双方ともに狙いが定まらなくなってきていた。    『永遠のコルヌコピア』@    了


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