際神保


連作短編『境界線』・下


「ねえ、恭平くん知ってるー? また際神保(さいじんぼう)で自殺があったんだってー?」  大学のゼミ室で荻さんが話しかけてきた。僕はゼミ室でレポートを書いている最中で、荻さんはついさ っき、ゼミ室にふらりと立ち寄ったところ。多分、ゼミ室に先生がいたら、レポートの提出期限を延ばし てもらおうと画策したいてのかもしれない。2時間後のゼミの時間に、彼女もレポートを提出しなくては いけないけれど、それをゼミ生の人数分コピーする準備をさっぱりしていないところを見れば、なんとな く彼女のねらいが分かる。  荻有子さんは僕と同じゼミ生で2年生。もちろん僕も2年生だ。彼女はすらりとした美人で、セミロン グの黒髪が艶やかだ。ファッションは今時のカジュアルな感じで、淡いベージュのカットソーを着て、フ リフリしたスカートの下に黒いタイトなパンツをはいている。それよりも何よりも男子学生諸君の目を奪 うのは、その胸だ。カットソーでよく分からなくなっているけど、多分、彼女はずいぶんとグラマラスな 感じだ。それでも、ナチュラルメイクで屈託のない笑顔で話しかけてくれるので、こちらとしては接しや すい人だ。もちろん彼氏持ち。  そんな彼女が似つかわしくない話題を振ってきた。際神保で自殺って結構物騒な話だと僕は思った。 「なんか全然穏やかじゃない話題だね」 「そうなんだけどさー、最近ネットでも話題騒然みたいなんだよね。ほら、学生でも自殺しちゃう人って たまにいるじゃん。怖いよねー」  荻さんは嬉々として話し続ける。 「大体、際神保って自殺の名所なんでしょー。今から行ってみようか?」 「いやぁ、怖いものみたさだけで行くのはお勧めしないなぁ」 「あれ、恭平くんって結構怖がりなのかな?」 「怖がりというか、うーん、まぁ怖がりなんだろうねぇ」 「へぇー、意外だー。恭平くんってそこらへん鈍感だと思ってたのに」  さくっと今さっき失礼なことを言われた気がする。それはともかく、際神保というのは、僕が住む県内 の北部にある岬のことで、見晴らしはとても良いところだ。海に沈む夕日を見れば、その光景の美しさに 心惹かれる。だけれども、その岬は断崖絶壁になっていて、こんなことを言うのもおかしいかもしれない けれど、身投げには持って来いの立地条件も兼ね備えている。岬のすぐ近くにある電話ボックスのなかの 公衆電話には、10円玉がうず高く積まれていて、「早まるな」といったような警告文が貼り付けられてい るというのだから、風光明媚だけで終わらない、言わずと知れた恐怖スポットだ。 「でもなんで、際神保? 肝試しのシーズンは終わってるよ?」 「あれ、やっぱり恭平くん知らないんだ? おっくれてるー」 「遅れるもなにも、なんのことだか分からないんだから」 「だからさ、ネットで話題なんだって。あのね、際神保にライブカメラを取り付けてさ、際神保で自殺す る人を流してるホームページがあるんだって。それで、昨日の夜、実際に際神保から身投げする人が映っ てたらしいよ。とんだ恐怖体験アンビリバボーだよね」  彼女はまたさらりととんでもないことを言った。こんどはひっかかるどころの騒ぎではない。多分、彼 女はゴシップ記事でも読むかのように言ったのだろう。それでも僕は気分が悪かった。胸がムカムカとし て、気持ちが悪くなってきた。人が人でなくなるときを生中継するだなんてどんだけ悪趣味なのかと思う。 そして、それを他人事で話している彼女に、僕はムカムカとした。 「…へぇ、それで?」  僕は自分の不平不満を押し殺して彼女に問いかけた。荻さんは一瞬押し黙って、それから平静を取り戻 して言葉を紡いだ。 「…別に、そういうことがあるんだよっていうことだけなんだけど…」 「…ふーん、そうなんだ」  言いながら僕は、シャーペンをカチカチカチカチしていた。 「…な、なんかあたし恭平くんのこと怒らせちゃったよね? 怒ってるよね? ごめん、別に悪意はなか ったんだよ。でも、ちょっとおもしろそうだなって思ってさ…。あたし、失礼なこと言ったよね。ごめん ね。あ、あと、これからあたし講義あるから。ごめんね、じゃあまたねー」  彼女はそう言って話を切り上げて、そそくさとゼミ室を出て行った。ちょっと露骨に怒りすぎただろう か。多分、彼女に悪意はなかったんだろうし、単なる話のネタとして僕に話しかけてくれたんだろう。で も、その内容は僕にとっては鼻持ちならなかったことは事実だ。それにしても、際神保か…。よりによっ てそんなところをライブカメラで映さなくてもいいだろうに。 ◇  2時間後の17時にゼミが終わって、僕は家に帰ってきた。ゼミでは案の定、荻さんは発表をせず、来週 に再度、発表するという運びになった。他のゼミ生も、先生もそこは分かっているようで、やれやれとい う感じだった。その時間中、荻さんとたまたま目を合わせることがあったのだけど、やはり少々気まずか った。やはり先ほどの際神保の件が効いているのだろう。だからといって、それ以上追求する義理も権利 も僕にはないので、あまり当たり障り無く、その場をやり過ごすことにした。  家に帰ってきて、僕が最初に考えたことは、今日の晩御飯はなににしようかということだった。晩御飯 は僕の当番になっているので、献立を考えなければいけない。冷蔵庫にキャベツとひき肉が残っているか ら、ロールキャベツにでもしようか。うまく煮込むことができれば、とても味が染みておいしく作ること ができる。しんなりして甘くなったキャベツが包むひき肉の濃厚なうまみ。これだけでもご飯は3杯いけ るところだろう。  そんな算段をしていたところで姉さんが帰ってきた。 「キョウー、ご飯まだー?」  帰ってきて第一声がただいまではなく晩御飯の催促ときたもんだ。 「あぁ、今から作るところだよ」 「今日はあんまりご飯作りに気合が入ってないんだねぇ」 「なんでそんなこと言うの?」 「いやだって買い物してきてないからさ」 「毎日買い物をするってわけでもないけど、冷蔵庫の余り物で作ると手抜きに見える?」 「それよりもさ、なんか気になってることがあるんじゃないの?  こういうときの姉さんはやたらと鋭い。大学での一件を見透かされたんだろうか。 「それは…、そうなんだけどね」  僕は姉さんに、大学で荻さんから聞いた際神保の話を話した。 「それで、キョウはどうせぶち切れたんでしょう?」  本当に姉さんには全てお見通しのようだった。姉さんは居間で新聞に目を通しだしている。どうやらく つろぎモードに入っているようだ。僕は台所に立つことにした。ロールキャベツを作るには、まずたまね ぎをみじん切りにしなければならない。みじん切りにしたたまねぎは、バターであめ色になるまでいため る。うーん、玉ねぎの甘い良い香りがしてくる。 「そりゃあぶち切れるでしょうが、人の死をネットでさらしてるわけじゃん。どうせいろんな動画投稿サ イトで流されてるに決まってる」 「じゃあキョウはさ、自分が死ぬときに、どんな人に見取って欲しい?」 「は?」  僕はパン粉を牛乳にひたしながら、キャベツを柔らかくするために茹でていた。姉さんはこう言った。 「どんな人に見取って欲しい?」  うーん、そりゃあ家族だろうかな。 「そりゃあ、姉さんとか、家族のみんなでしょう?」 「それだけでキョウは満足できる?」 「満足?」 「そう、自分が死ぬ姿を見てくれる人が、家族だけで満足できるかな?」 「満足とか、そういう問題じゃないと僕は思うんだけどなあ」  言いながら、僕は玉ねぎとひき肉とパン粉をこねる。こねてこねて、塩コショウとナツメグで味を調え てから、またひき肉をこねる。 「じゃあ、どういう問題?」 「いや、生きてて良かったなぁ、とか、ありがとうとか、そういうもんなんじゃないのかな」  姉さんは新聞を読みながら言った。 「それはね、当たり前の論理だよ。自殺するのは当たり前じゃないんだよ。キョウはそこが分かってない ね」  僕はこねたひき肉を4等分して丸く握り、茹でて柔らかくなったキャベツで巻き始めた。あとは、これ をベーコンで巻いて、爪楊枝で止めて、ブイヨンを入れて、ことこと煮ていくだけ、うーん、結構楽チン な料理だなぁ、ロールキャベツは。 「当たり前じゃないことなんて、分かるわけがないじゃないか」 「そう、キョウがそういうのは正しい。だから、アタシらには公開投身自殺をした人間の論理なんて分か らないわよ」 「そういうもんなのかなぁ」 「もしかしたら、その投身自殺君、さんかもしれないけれど、そういう風に見ず知らずの他人に騒いで欲 しかっただけかもしれないわよ? 死んじゃった本人は、文字通りそのあとの展開なんて死んでも分かん ないんだけどさ」 「でも、それって…」 「まぁ、これもまたエゴなんだけどね」  ロールキャベツはことこと煮えている。あと30分もすれば、キャベツはしんなりしてくるだろう、料理 の完成にはもう少し時間が掛かる。僕はそこで、ふと思ったことを口にした。 「今回の事件って、新聞とかに載るかな」 「新聞に載って、テレビにも出て、ゴシップ雑誌にも載るかもしれないわね。まぁ、それが本人の望みだ って言うんなら、文句のつけようがないじゃない」 「本当に望みなんだね」  ふと窓に目をやると、満月が家々の屋根の上に明るく照らし出されていた。亡き王も月に思いを馳せた んだろうか。僕が気になったことは、そんなことだった。


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